僕だけが覚えている、幼馴染のあの子のことを・・・。

                Missing person report

 「和田さん。俺、本城さんに告白されたんです」

 伊智子の失踪から一週間後の日曜日。九重は僕のアパートにやって来て、照れくさそうに笑ってそ

ういった。僕は一瞬意味が理解できずに、ぼんやりと九重の顔を見つめた。九重は伊智子との関係を

惚気る時と同じ、でれでれと鼻の下を伸ばしている。

 「何やってるんだよ……

 こんな時に告白する本城も信じられないが、真に受けて鼻の下を伸ばす九重の感覚も僕には信じが

たかった。あれ程落ち込み、仕事も手につかない様子だったのに。今の九重はにやにやと笑っている

だけで、少しも伊智子の事など考えているようには見えない。

 「何やってるって……。彼女のいない俺を気遣って、本城さんと引き合わせてくれたのは先輩じゃ

ないですか」

 憮然とした表情で九重はそう言うと、鞄の中から携帯電話を取り出す。以前は待ち受け画面に伊智

子と九重の姿があったのだが、今は本城と手をつないで笑う九重がそこに写っていた。

 「ね、これが証拠です。人生初の彼女がこんなに綺麗な人なんて、本当に俺は幸せ者ですよね」

 「引き合わせたって、喫茶店で事情を話しただけじゃない。それにお前、伊智子の事はどうするん

だよ?いくら消息がわからないからって、そんなに簡単に本城に乗り換えるなんて……」

 僕は混乱する頭で、思いつく限りのことを捲くし立てた。確かに本城は伊智子とは比べ物にならな

いほどの美人だし、落ち込んでいるときに美人から優しくされればそちらに目が向いてしまうのも仕

方がない事なのかもしれない。でもだからといってそんなにあっさりと、伊智子の事を捨てていいと

は思えない。

 「イチコ?誰ですか、それ」

 九重は始めて聞いた名前だと言わんばかりに首をかしげ、ニ・三度瞬きをした。その仕草にわざと

らしさは微塵もなく、九重の記憶から伊智子に関することが全て抜け落ちてしまっているかのようだ

った。

 「誰ですかって・・・お前の恋人で、僕の幼馴染だよ。松永伊智子のことだよ」

 どれほど僕が声を荒げても、九重は首をひねるばかりで埒があかない。たまらなくなった僕は九重

の胸倉を掴むと、力任せに揺さぶった。

 「な、何するんです?先輩」

 「本当に覚えてないのか?あんなに大事にして、出会えて幸せだってお前が言ってた自分の恋人の

ことを!」

 何度揺さぶってみても九重は困惑した顔で首を振るだけで、何も言わない。僕は胸元を掴んでいた

手を離すと、フローリングにへたり込んだ。床の冷たさが、上がりすぎた体温を冷やしてくれる。


 「先輩、ここの所ずっと残業続いてましたから。疲れてるんですよ、きっと」

 九重はそう言って僕に同情の眼差しを向け、“ゆっくり休んでください”と言ってそそくさと僕の

部屋を後にした。しばらくそのまま呆然としていた僕は、はっと我に帰り携帯を取り出した。メモリ

ダイヤルから本城の番号を検索し、電話をかける。

 『あ、もしもし。本城?今……』

 『もしかして俊太が和田君の家に来たんでしょう?あたしたち付き合うことになって、引き合わせ

てくれた和田君の所に御礼に行くって言ってたから』

 電話の向こうの本城は、屈託なく幸せそうにきゃはきゃはと笑っている。僕は怒りを抑えようと携

帯電話を強く握り締め、深呼吸した。

 『別に、本城が九重を好きになることは悪いことじゃない。でも伊智子の問題が片付いてないのに

、告白するなんてあんまりだと思わない?』

 九重は本城に告白されたことで舞い上がり、冷静さを欠いてしまった。そのため一時的に伊智子の

事を忘れたに違いない。だから本城の口から伊智子の問題が解決したら付き合おうと説明してもらえ

れば、ことは全て丸くおさまるはずだ。

 『……和田君。イチコって誰?』

 黙って僕の話を聞いていた本城がそんな言葉を返してきたとき、僕の怒りは得体の知れない恐怖に

変わった。本城の声にもうそ臭さは微塵もなく、二人の記憶から完璧に伊智子の存在が抜け落ちてい

るという事実が僕に突きつけられた。

 『いや、わからなかったらいいよ』

 僕はそう言うとHoldボタンを押して、今度は伊智子の自宅の電話番号を呼び出す。嫌な汗が体中か

ら噴きしてきて、携帯を握る指先がぬるぬると滑る。

 『はい、松永です』

 『あ、和田と申しますが。伊智子さんいらっしゃいますか?』

 電話に出た伊智子の母親に、僕はいつもと同じように名前を名乗った。普段なら“あぁ、和田君。

ちょっと待ってて、今伊智子に変わるから”という言葉の後、保留音のグリンスリーブスが流れるは

ずだ。僕は祈るような気持ちで、伊智子の母親の言葉を待った。

 『あの、うちには娘はいませんが……』

 母親はそう言うと、そのまま受話器を置いた。グリンスリーブスの代わりに聞こえてきた回線が切

れた音を聞きながら、僕は思わず携帯を取り落とした。両親さえ、伊智子の記憶を失っている。考え

られない事態に直面した僕は片っ端から同級生や伊智子の知人に電話をかけたが、返って来る答は全

部同じ。誰?の一言だった。

 (どうして、みんな忘れている?まだ一週間しかたっていないのに……)

 あれ程悲しみ涙にくれた人々の記憶からも、伊智子は消えてしまったのだろうか。でもそれならば

何故、僕には伊智子の記憶が鮮明に残っているのだろう。もし神様というものがいて、皆を悲しませ

ないように配慮してくれたのだとしたら。何故僕の記憶だけは奪ってくれなかったのだろう。

中学生の頃は三年間同じクラスで学び、二人とも史学に興味を抱いていたことから交友が始まって

。高校は別々の学校に進学したものの、同じ大学を目指す仲間として頻繁に連絡を取り合い同じ塾に

も通った。そして共に大学生活を終えた三年前に僕は教材会社のサラリーマンになり、伊智子はさら

に大学院へと進んだ。そんな僕の過去の様々な記憶の中に、伊智子の姿は確かに存在している。それ

なのに、他の誰の記憶からも、伊智子は姿を消してしまったのだ。

 「伊智子……」

僕は湧き上がる恐怖感に飲み込まれそうになり、泣きながら忘れられた幼馴染の名前を呟いた。そ

の涙は、伊智子が失踪してから僕が初めて流した涙だった。

 

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