僕だけが覚えている、幼馴染のあの子のことを・・・。

     Missing person report

 『和田君』 

 スクリーン一杯に、詰襟姿の僕が映し出される。これが彼女の残した僕の記憶らしい。伊智子が僕

を和田君と呼んでいたのは、中学の三年間だけだった。ということは、これはその頃の記憶なのだろ

う。

 『今日の数学の小テストどうだった?』

 伊智子の問いかけに僕は首を振り、曖昧に笑っている。僕は昔から数学が嫌いで、その成績は惨憺

たる物だった。そこでぷつりと映像が途切れ、またじじじという機械音に変わる。

 『和田、この子なんだけど……』

 どこかの喫茶店らしい店で、僕はコーヒーを飲みながら写真を見ている。これは確か僕が高校一年

のとき、伊智子が僕に女の子を紹介してくれたときだ。

 『可愛いでしょう?性格もいいんだよ』

 結局その写真の中の子は僕の始めての彼女になったのだけれど、一年も経たないうちに別れてしま

った。そのとき彼女は伊智子に泣きついたらしくて、女と別れるならもっと上手くやれと怒られたこ

とを僕はぼんやりと思い出す。そしてまた映像は切れ、スクリーンが暗くなる。

 『和田、これ読んでみて。すごく面白いから』

 今度は大学の学食で、ハンバーグ定食を食べている僕が映し出された。伊智子がテーブルに置いた

本は、この地域の歴史を今までとは違った視点で捉えた学術書だ。

 『歴史は、偉大だよね。それを知れば少しは、未来も変わってくると思うんだ』

 結局、僕はその本を最後まで読まなかった。難しすぎて、内容についていけなかったのだ。でも伊

智子は僕がその内容を理解したと思い込んでいて、ごまかすのが大変だった。そして、また記憶は途

切れる。

 『和田。本当に就職するの?』

 大学の敷地内にある、小さな庭で。あきらめたように笑う僕の姿が映し出されると、僕は思わずス

クリーンから目を逸らした。この記憶だけは見たくない。

 「どうしたの?」

 シオウは俯いた僕に近づくと、スクリーンの映像を停止させた。僕はシオウの言葉には答えずに、

黙って首を振る。あの日、僕は伊智子に研究者への夢を諦めることを告げたのだ。僕は自分に自信が

なかった。夢を追いかける自信も、後ろを振り返らない勇気もなかった。

 「貴方にとって、辛い記憶だったのね」

 「辛いんじゃなくて、何ていうか……」

 僕は思わず、言葉を濁す。僕はいつでも、伊智子みたいにまっすぐに生きてはいなかった。やりた

いことを持ちながら、それを諦める理由を探していた。僕はそんな過去の自分が、たまらなく嫌いだ

 「でも、随分と鮮やかに貴方の記憶が残っているのね。驚いたわ」

 シオウはまた端末を操作し、スクリーンをしまいこむ。

 「普通、家族や恋人でもここまでは残らないものよ。彼女にとって貴方は、よほど特別な存在だった

んでしょうね」

 シオウがそう言ったとき、部屋のドアが開きファーストが姿を現した。手には大きなボストンバッ

グを持っていて、少し重そうだ。

 「この中には、マツナガイチコの記憶を残した書類やCDRが入っているわ。遺伝子情報ももちろん

入っているの」

 僕はなぜシオウがそんなものを持ってこさせたのかがわからずに、黙ってボストンバッグを見てい

た。シオウは僕の視線に気付いて、小さく笑う。

 「今から私が、もう一度ファーストにマツナガイチコの記憶を入れるために持ってきてもらったのよ

 「じゃあ……」

 僕は驚きのあまり、それ以上の言葉が出てこなかった。シオウの言うことが本当なら、もう一度僕

は伊智子と一緒に生きていけるということだ。

 「でも彼女に記憶が戻っても、社会から彼女の記憶が消えてしまったことに変わりがないわ。彼女は

今までのようには、生きていけない。それでも貴方は、マツナガイチコに会いたいのかしら?」

 僕はシオウの問いかけに、即答することはできなかった。もう市民劇団でオペラを演じることも、

歴史の真実を追いかけて追究することも。そして恋人の九重と手を繋ぐこともできない。そんな世界

に伊智子を呼び戻すのは、あまりにも酷な気がした。少なくとも今のままファーストとして生きてい

る分には、彼女は苦しむことはないのだから。

 「ママ。この人、苦しそう……。この人が苦しそうだと、私も苦しいの」

 「大丈夫よ、ファースト。あなたが苦しむ必要は無いわ」

 シオウはファーストの髪をなで、いとおしそうに呟いた。それはまるで本物の親子のようで、僕は

ますます答を出すことができなくなる。

 「迷っているのね」

 僕はシオウの言葉に頷き、優柔不断な自分を持て余す。シオウはそんな僕をせかすでもなく、ただ

待ってくれていた。

 「……僕は、伊智子と生きていきます。伊智子の記憶と生きていきます」

 かなり長い間迷った僕の答えは、それだった。たった一人でこの記憶を抱えることは辛くて、悲し

いけれど。伊智子が苦しむことだけはしたくなかった。

 「貴方は優しいのね。そして私の娘を、本当に愛してくれたのね」

 シオウはファーストの髪を撫でながら、小さな声でそう言った。

 「この子は、私の本当の娘よ。私がドールにされたとき、一緒にドールにされた。だからファースト

というの。私と夫のマルティネスの間に生まれた、たった一人の娘なのよ」

 マルティネス。それは僕が教会で見せてもらった日記に出てきた神父の名前だ。妻と娘を失った悲

劇の神父は、死ぬまで自分の妻子の行方を知らなかったことだろう。だけど死の瞬間まで、二人のこ

とを忘れなかったことだろう。そう思うと、僕は複雑な気持ちになる。

 「ファーストのことを、そしてできたら私のことも。覚えていてくれるかしら?」

 僕がシオウの言葉に頷こうとした瞬間、室内にけたたましいサイレンの音が響き渡った。

 「この音は?」

 「ドールを制御している、メインコンピュータのエラー音よ」

 シオウはあわてて端末を操作するが、エラー音はやまない。僕は何かできることはないかと室内を

見回してみたが、どこに何があるのかさえわからない状態ではできることは何も無かった。

 「このままでは、ドールの暴走が始まるわ」

 端末を叩いていたシオウが頭を抱えたそのとき、室内の電気が消えてしまう。

 (どうなってしまうんだ……)

 僕は突然訪れた暗闇の中で、言いようのない不安を抱えていた。ドールが暴走すると何が起こるの

か、想像もつかないままに。

                            −To be continued.


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