カゼの功名

 (体が変だ……)

 いつものように制服に身を包んでハンバーガーを手渡していた私は、くらくらする体を支えるためにカ

ウンターに手を着いた。平日の午後にしてはお客さんも多いせいか、店内にはポテトやケチャップのニオ

イが充満している。

「すみれ、大丈夫?」

 私の異変に気がついたらしく、同じくカウンターの中にいた洋子が私を気遣うように声をかけてきた。

すぐ目と鼻の先にいる洋子の声が、なんだか遠い。

「あら、藤下さん。調子悪そうね」

 忙しく働いていたチーフの安堂さんはそう言うと、私を厨房の隅に手招きした。のろのろと私が安堂さ

んの傍に歩み寄ると、冷たい手が額に乗せられる。

「これは立派な発熱ね。風邪かしら?無理しないで帰りなさい、こじらせると後が辛いわよ」

「すみません」

 安堂さんの言葉に甘え、私はさらにのろのろとした足取りでロッカーに向かう。制服を脱ぎ捨てジーン

ズに着替え、私はそっと店の裏口から外にでた。

 (なんとなく、ここ最近調子が悪いなぁって思ってたけど。熱まで出るなんて)

 制服が入った鞄を抱え、私はずりずりと足を引きずりながら歩いていく。アスファルトがぼよんぼよん

と波打つような、そんな感覚があってなかなか早く歩けない。

「あー、完璧な風邪ですね。とりあえず薬を飲んで、安静にしておいてください」

近くにある病院に立ち寄り、医者にそんな忠告と薬を貰った後。私はアパートに帰りつくと、私はテー

ブルの上に走り書きのメモを置いた。いつもならこんな時間に帰ってこれないから、驚くかもしれない。

【孝へ。風邪引いたから、バイト早退しちゃった。夕飯適当に食べて】

孝というのは、私とこの部屋で同棲している恋人だ。造園会社で働いていて、私より一歳年上。物凄く

かっこいいわけじゃないけど、すごく優しい。他の女の子にもこんな風に優しいのかなって、考えるとき

もあるけど……。

(少し寝よう)

枕元にスポーツドリンクの入ったペットボトルを置いて、私はパジャマに着替えるとベッドにもぐりこ

んだ。体を横にすると、具合の悪さは少し和らぐ。私はすぐにうとうとし始め、眠りに落ちた。


「なぁ、いいだろう」

「えーっ」

どれくらい眠っていたのか、私は誰かの話し声で目を覚ました。寝返りを打って枕元にある携帯に手を

伸ばし、時間を確認する。

(一時間くらい、寝てたのかな)

ぼんやりとうす闇に浮き上がる携帯のディスプレイを眺めていると、私の意識は少しずつ覚醒してきた



「彼女にばれたらどうするの?」

そのとき、隣の部屋から女の声が聞こえてきた。私は驚き、ベッドから転がり落ちそうになる。

「この時間はまだバイトだからばれやしないよ」

女の声に答えたのは、間違いなく孝だ。私は思わず布団をぎゅっと握り締め、声を殺した。孝はテーブ

ルの上のメモの存在に気がついていないみたいだ。


「それに俺はさ、お前の方があいつよりずっと好きなんだよね」

「私も孝が好き。ねぇ、だから早く彼女と別れてよ」

耳をふさぎたくなるような会話の合間に、キスを交わす濡れた音が響く。孝が浮気をしている、あまり

のショックに私は身動き一つ取れなくなっていた。いったいいつから、孝は浮気をしていたのだろう。二

人でアパートを借りたときにはもう、していたのかもしれない。最悪な想像が、私の脳内を埋め尽くす。


「やだ、続きはベッドで」

甘えたような女の声が聞こえたのと、寝室のドアが開いたのはほぼ同時だった。私はベッドの上で、孝

と女は床の上でそれぞれ固まっていた。


「お、お前。なんでいるんだよ」

「風邪引いて、早退したの」

孝は私を指差し、それから女に視線を向けた。女は私を見るなり、孝の後ろに隠れる。

「いいよ、続けて。でも、ここじゃないところでね」

私はそう言うと、だるい半身を起こした。青ざめている孝の顔が、いつになく軽薄に見えた。私には泣

く気力も、喚く体力も残っていない。今はただ、眠りたかった。


「出て行って」

蝋人形のように固まっている二人にそう言うと、私はまたベッドに横になり布団をかぶった。しばらく

すると女のすすり泣きと、衣擦れの音が聞こえてくる。そしてバタンという音と共に、二人が外に出て行

った気配があった。


「眠い……」

私はそう言って、布団の中で目をこすった。あくびをしたわけでもないのに、目から涙があふれてくる

。こすってもこすっても、涙は止まらなかった。

***********************************************

「いらっしゃいませ」

それから二日後。私はいつものように、カウンターの中でお客様に笑顔を振りまいていた。まだ目はは

れているけれど、食事もできるし夜も眠れるようになった。


「元気になってよかったね、すみれ」

 もちろん洋子の言葉にも、笑って頷ける。あの日カゼを引いたから、私は孝の裏切りを知った。最初は

それを悲しんでいたけれど、よく考えればあの日カゼを引かなければ私はその裏切りに気付かなかった。

一生騙されたまま暮らしていくより、悲しくても辛くても知っていた方がいい。


「まぁカゼの功名、っていうことなのかな」

「ん?何か言った??」

 声に出さないつもりがしっかりと声に出ていたらしく、洋子がいぶかしそうに私を見詰めてくる。

「なんでもないよ」

 私は苦笑し、カウンターをダスターで拭き始めた。まだ自分の中に残る、悲しさや寂しさを振り払うよ

うに。

Fine.



*円。Vol.7風招きより転載*