「良く来たね。リリア姫はこの奥の部屋にいる……。でも君たちには渡さないよ」

 あの日、月灯りの草原で出会ってから三ヶ月。私達を前にした魔王は、ためらうことなく魔石を飲

み込んで巨大な竜へと姿を変えた。

 「リリア姫は、俺が救い出してみせる!」

 カナーレは巨大な竜にも臆することなく剣を構え、私とウェン爺さんに視線を投げた。その視線に

頷いて私は剣を構え、爺さんは〈原理〉を操る呪文の詠唱を開始する。

 「うがぉぉ」

 口から吐き出される炎と、暴れまわるたびに空を切る鋭い爪。もはやそこにいるのは、誇り高き魔

族の王ではなかった。自分で自分を制御することさえままならない、哀れな獣。その獣に剣を振る度

に、私の脳裏にはあの日の記憶が蘇る。

『一緒に月見酒でも飲もうよ。これも何かの縁なんだから』

『そんな誇りがいくらあっても、あの人の心は変えられない。僕の孤独も終わらないんだ』

『いまさら何を言っても、言い訳だけどね。愛したことが悪いんだから』

『この月灯りの中で君と話しができて、本当に良かった』

 気がつくと私は、ぼろぼろと涙をこぼしながら剣を振るっていた。戦士になってから今まで、これ

ほど哀しい戦いは初めてだ。

 「これで終わりだ!」

 カナーレの剣が竜の心臓を一突きにすると、辺りにおびただしい量の血があふれ出す。もはや声を

上げることさえ出来ないまま、竜は自らが流した血の海にくず折れた。

 「カナーレ様!」

 「リリア姫!」

 血の海に横たわる竜の存在など無視し、引き裂かれていた恋人たちは固く固く抱きしめあう。それ

はとても感動的な光景で、ウェン爺さんは思わず目頭を押さえている。だけど私の目に浮かんでいた

涙は、潮が引くように乾いていった。

 「さぁ、帰りましょう。父王が心配されています」

 カナーレは姫の手を引き、振り返ることなく歩き出す。その背中が豆粒ほどの小ささになったとき

、私は血に汚れた鎧を脱ぎ捨てた。乱暴に放り投げたせいで、エンブレムがぐにゃりとひしゃげる。

 「お前さん、何をするつもりかね?」

 ひしゃげたエンブレムを驚いた顔で見つめ、ウェン爺さんは布の服姿になった私に尋ねてくる。私

はにっこりと笑い、血の海の中で人形に戻って横たわる魔王の元に歩み寄った。

 「あたしは、国には帰らないよ。このまま世界を旅するつもりさ」

 戦士のエンブレムは、今の私には何の意味も持たない。私に必要なのは、そんな誇りではないこと

に気付いたのだ。

 「その方が、カナーレにとっても好都合だろうし。爺さんから説明しておいてよ、武者修行の旅に

出たとでもさ」

 血の海から魔王を抱き上げ、私は爺さんに微笑んだ。いつもいつも私を気遣ってくれた、偏屈だけ

ど優しい爺さん。そんな爺さんに何度慰められ、助けられただろう。

 「勝手にせい」

 あきれ果てたように私に背を向け、爺さんは杖をつきながら歩き出す。私は魔王の身体を抱いたま

ま、その背中をじっと見つめた。

 「…達者で暮らせ。幸せになれよ」

 「爺さんもな。長生きしろよ」

 振り返らずに爺さんはぼそりと呟き、魔王の城を後にする。乾いたはずの涙がまた滲み出し、私は

乱暴に腕で涙を拭った。爺さんの姿が見えなくなるまで、私はその場に立ち尽くしていた。

 「もう少しだから、我慢してくれよ」

  爺さんを見送った私は、背中に魔王の死体を背負って歩き出す。あの月灯りの草原に、魔王の亡

骸を葬るために。

 『もし僕が君たちに敗れてしまったら。この身体が爆発して、魂が居場所をなくしたら。僕の骨を

地面深くに埋めてくれないかな』

 あの日、交わした約束を守るために私は歩く。魔王の身体から流れた血が私の背を濡らし、服を赤

く染め上げても。私は休むことなく、歩き続ける。

 「綺麗なもんだな……」

 ひたすら歩き続けた私が草原にたどり着いたのは、魔王の城を出てから三日目の夜だった。あの日

と同じように月は煌々と輝き、草原の草は夜風になびいている。

 「今度生まれてくるときは、愛し方を間違わないように気をつけた方がいいよ」

 崖の近くに深い穴を掘り、魔王をそこに座らせた私は、物言わぬ躯にそう語りかけた。きっと魔王

は死ぬ瞬間も、リリア姫を愛したことを後悔しなかったのだろう。とても安らかな死に顔だ。

 「愛したことは罪じゃないんだから」

 魔王にというより自分自身に呟いて、私は明るすぎる月を見上げる。この月が光を失ったら、魔王

の躯に土をかけて旅立つつもりだ。

 「だから今だけは、泣かせて……」

 そう言うと、私は膝を抱えてあふれる涙に身を任せた。魔王の愛と自分の愛の弔いのために。報わ

れることのなかった想いを忘れるために。

 そんな私達を、月灯りが静かに照らしていた。つかの間の追憶を、許すかのように―。

Fine.