羽化したての柔らかい羽を、

                      広げて強く生きていく……。


                   スワロウテイル・バタフライ
               
                    

               

         いつのころからだったろう。この家に住む人間を、家族ではなくただの他人と思う
 
        ようになったのは。

             血の繋がった他人の存在は、わずらわしさこそなかったものの、私の性格を大きく

        歪めてしまった。

        『勉強して偉くなれって、ママがうるさいの』

         小学校の同級生だった久原静香ちゃんの口癖は、これだった。静香ちゃんは大きな

        目をしたおかっぱ頭の女ので、いつもばら色の頬をしていた。

        『パパはパパでね、マラソン大会でも一位になれっていうし』

            小うるさいほど自分に関心を持ってくれる肉親を持たなかった私には、静香ちゃんの

        話はおとぎなしみたいに聞こえた。テストで百点をとっても、零点をとっても。マラソ
  
        ン大会で一位になっても、ビリでも。私の家族は私に関心がなかった。

             『時々、嫌になるんだよね』

         静香ちゃんはオトナみたいにため息をついて笑っていたけれど、私は笑えなかった。

        私には家族の存在が嫌になるということが、わからなかったから。   

        だけど皆が頷くのを見て、私は曖昧に笑った。他の子たちの笑い方を見ながら口の端

        を曲げて、精一杯の微笑を作った。その瞬間、心の中で悲鳴が聞こえた。ばきばきとい

        う何かが折れる音と一緒に。

        今になって思えば、それが私の最初の殺人だった。私はそのとき、自分を殺すことを

        覚えた。今から七年前、まだ十歳のときだった。

        「樹理、ご飯よ」

         ぼんやりと回想に浸っていた私を現実に引き戻したのは、母親の冷たい一言だった。

        私は何も言わずに立ち上がって部屋を出ると、テーブルに着いた。

            「……いただきます」

        「いただきます」

        父の言葉に続いて私と母も手を合わせ、箸置きに置かれた箸に手を伸ばす。食卓の上に

       は煮物・焼き物・吸い物などが理路整然と並べられていて、それらは皆冷え切っている。


       『昨日の夕飯、すき焼きだったんだー』

       『いいなぁ〜。でもうち兄弟が多いから、すぐお肉の取り合いになるんだよね』

        中学生の頃、教室で同級生がそんな会話をしているのを聞いた時。私はあまりの羨望で

       貧血を起こし、そのまま保健室に運ばれた。肉の取り合いをするということが、一つの鍋

       の物を家族で分け合って食べるということが私には羨ましくてならなかった。

       私が今までに食べたことのあるすき焼きは、平たい皿に乗って冷め切った肉と白滝、そ

       して春菊と麩の入った煮物だった。熱い肉を生卵につけて冷まして食べると言うことがす

       き焼きの醍醐味であるはずなのに、私の家のすき焼きはその必要がないほど冷え切ってい

       た。

           いや、すき焼きばかりじゃない。この家のものは全て冷め切っている。食べ物も、人

       も、心も全て。

           「ごちそうさまでした」

           いつも通り会話のないまま食事を終えて立ち上がり、私は自分の使った皿を洗う。酒
      
       を飲んでいるため食事のスピードが遅い父と、食べるのが遅い母を残して。私はそそくさ

       と自室に引き上げた。

            「うっ……」

           程なく猛烈な吐き気がこみ上げてきて、私はばたばたとトイレに駆け込む。ここ最近、

       私は家で食事をすると吐いてしまうという症状に悩まされていた。食料がもったいないと

       は思うのだが、どうしても我慢ができない。

       「げぇ……」

           右手で水洗レバーをひねりながら、左手で便器を抱きかかえるように嘔吐する。胃の中

       に詰まっていた食料はもう全部吐き出されてしまったはずなのに、胃液だけが喉を逆流し

       て吐き出されていく。

       「はぁ……はぁ……」

           吐くだけ吐いてしまうと、嘘のようにぴたりと吐き気はおさまる。私はふらふらと立ち

       上がってトイレを出ると、洗面所で口をゆすぐ。

           「廊下はもっと静かに歩くように。行動には品位が出るものだ」

           口をゆすぎ終え歯みがきをしていた私の後ろから父が顔を出しとそう言うと、いかめ

       しい顔をしたままぬうっと首を引っ込めた。私は鏡越しに父がいなくなったことを確認す

       ると、歯を磨く手を止めた。


            父は、めったに私の名前を呼ばない。十七年この家で過ごしてきたが、〈樹理〉と呼ば

       れた記憶は二度しかなかった。一回目は来客に私を紹介したとき。二回目は大きな法事の

       ときに親戚の前で。それだけだ。

           (あ、携帯)

            歯を磨き終えたタイミングを見計らうように、ジーンズのポケットに入れていた携帯電

       話が振動する。私はディスプレイに記された名前を見ると、音を立てないように急いで

        自室に戻った。

        『もしもし』

             『お、良かった。今日もちゃんと出てくれた』

         携帯越しに穏やかなバリトンの声が聞こえ、私はほっとため息をついた。

        『お待たせしてすみませんでした』

         私は椅子に腰掛け、目を閉じる。この電話の間だけは、余計な意識はシャットダウン

        していたかった。

       『そんなに大げさに謝ることでもないって』

         電話の向こうで、バリトンの声音が笑みに変わり弾ける。この笑い声が、私は何より

        好きだった。

         このバリトンの声音の持ち主、菅原正直さんは児童カウンセラーという仕事をしてい

        る。私に嘔吐する癖があると知った親友の恵美子が、相談相手になればと紹介してくれ

        たのだ。

            「昔、私がちょっと精神的に参ったときにね。お世話になったカウンセラーさんなの」

         そういいながら喫茶店で私と菅原さんを引き合わせてくれた恵美子は、今の明るい顔

        からは想像もできないほど暗い過去を持っている。詳しくは話してくれないけれど、私

        と同じように家族のことで傷ついて自殺未遂を繰り返していたらしかった。

            「話し方も優しいし、面白いし。それに亀の甲より年の功、雑学が豊富だから話してい

        ても飽きないの」

            「ひどいなぁ。まだ三十二歳だし、亀レベルの年寄りじゃないつもりなんだけど。」

         アイスコーヒーを飲みながら笑う菅原さんの顔を見たとき、私の本能はこの人は信頼

       できる人物だと悟った。その日から、私と菅原さんは電話やメールで連絡を取り合ってい

       る。

       『今日は大丈夫だった?』

       『……駄目でした』

        私は正直に、菅原さんに今日の結果を報告する。両親に対してはいくらでも嘘がつける

       のに、菅原さんには嘘がつけない。正直な言葉を菅原さんが求めているということが、わ

       かっているからだ。

       『うーん。今日も駄目かぁ』

        菅原さんは困ったように声を出し、ため息をつく。私は菅原さんに心配をかけているこ

       とにいたたまれなさを感じ、椅子の上で身を縮めた。

       『……じゃあさ、明日の夕飯は俺と食べるってのはどう?』

        しばらく考え込んでいた菅原さんは、突然とんでもない提案をしてきた。

       『家で食べるから、吐くなら。俺と一緒なら普通に食べられるって事でしょう?』

       『で、でも、菅原さんに迷惑が……』

        突然の誘いに驚いた私は目をあけ、軽いパニックを起こしてしまう。もし菅原さんと食

       事をした後に同じように吐いてしまったら、菅原さんに迷惑をかけてしまうことになる。 

       そう思うと、私の胸中は穏やかではない。

       『はは、心配しないで。学生時代とかに無茶飲みしてはく友達の世話、目一杯したから慣

       れてるし』

        私のパニックを意に介さず、菅原さんは豪快に笑う。

           『じゃあ、明日の六時半に駅前広場で待ち合わせね。何が食べたいか考えておいてよ』

        菅原さんはそう言うと、電話を切った。私はつーつーと鳴る携帯を握り締めながら、い

       つまでも呆然と固まったまま動けずにいた。

       「そうかそうか、ようやっと行動を起こしたか。遅すぎるんだよ、あの人は」

        次の日学校に付いた私は、朝一で恵美子に昨日の菅原さんとの会話を報告した。恵美子

       はにんまりと笑いながら、時折意味深に頷いている。

           「だからね、もし私が吐いちゃったら……」

       「あっちが大丈夫って言ったら、大丈夫だよ。それよりも、樹理。デートに着ていけるよう

       な春物の服はあるの?」

        私の心配をあっけなく無視して、恵美子は真剣な顔で私の服装の心配を始める。私はデ

       ートという言葉に反応し、頬が赤らむのを感じた。

           「デ、デートじゃないってば!」

        それ以上のことは何も言えず、私は恵美子の意地の悪い笑みから視線を逸らす。

       「まぁ、何でもいいけどさ。今日授業終わったら服見に行こうよ。菅原さんが惚れるような

       服、買わないとね」

        そう言うと恵美子は手を振り、自分の席に戻って行った。程なく始業のチャイムが鳴り

       授業が始まったけれど、私の耳には何の音も入ってこない。今日の夜、菅原さんと食事に

       行く。そのことだけで頭が一杯で、数学も古典も何一つ頭に入らなかった。

                * * * * * * * * * * * * * * * *

       「ごめん、少し待たせたかな」

        約束の時間から五分過ぎた六時三十五分。駅の広場できょろきょろと菅原さんの姿を探

       していると、とんとんと後ろから肩を叩かれた。

           「樹理ちゃんには制服姿のイメージしかなかったから、ちょっと探せなかった」

        苦笑する菅原さんも、いつものラフな格好とは違ってかっちりとしたスーツ姿だ。

       「似合いませんか?」

           「いや、凄くよく似合ってるよ」

        菅原さんは私の不安を見透かすように微笑み、目を細めた。私は途端に気恥ずかしくな

       り、菅原さんから視線を逸らす。

       「で、何食べたいか決まった?」

        そんな私を気遣うように菅原さんは話題を逸らし、優しくたずねてくる。

           「……すき焼き。すき焼きが食べたいです」

        私はほんの少しためらいながらも、正直な希望を口にした。中学時代から憧れていた、

       一つの鍋ものを取り分けて食べる行為が、菅原さんとならできるような気がしたのだ。

           「すき焼き?まさか霜降り和牛のとか……」

           「いえ、そんなのじゃなくていいんです。温かい、鍋に入ったすき焼きが食べたいだけだ
       
       から」

        私は懸命に菅原さんに説明しようとするが、上手く言葉がまとまらない。それを急かす

       でもなく、菅原さんは私の言葉を黙って聞いてくれた。

           「じゃあ、俺の家においで。すき焼き、作ってあげるよ」

        菅原さんは私の言葉が終わるのを待って、にこりと微笑んだ。

       「大丈夫、何も心配しなくていいから。そうと決まったら、買い物していこうか」

       「……わかりました」

        先手を打たれた私は何も言えずに、菅原さんと並んで歩きだした。途中小さなスーパー

       に寄った菅原さんは、牛肉と白滝、春菊やえのきだけなど好き焼きの具材をカゴに放り込

       む。

       「樹理ちゃんは好き嫌いある?」 

        真剣な顔で葱を選んでいた菅原さんは、思い出したように私の嗜好を聞いてきた。

       「いえ、何でも大丈夫ですよ」

        私も菅原さんの横から顔を出して、葱の品定めをしながら答える。

       「でもそういう質問するっていうことは、菅原さんには好き嫌いあるんですか」

       「うん、カリフラワー。子供の頃、カリフラワーで食あたりになって。それからずっと食べ

       られないんだよ」

        ようやく一本の葱を選び出した菅原さんは、情けなさそうに笑うとレジに向かう。

           「今からでも克服しましょうよ、カリフラワー」

           「うーん、また今度ね」

        カリフラワーが置いてあるところにちらちらと視線を走らせる私の攻撃を交わし、菅原

       さんはそそくさと会計を済ませた。

       「ここが僕の住んでいるところ。二階の左端が俺の部屋」

        スーパーを出てわずか三分で、菅原さんの住むアパートにたどり着いた。けして新しく

       はないけれど、きっちりとした造りだということが見て取れる。

          「おじゃまします」

          「はいどうぞ」

        私は履いていた靴をそろえ、室内に入っていく。物の少ないすっきりとした部屋の壁に

       はコルクボードがかけられていて、予定を書いたメモが張ってある。

          「意外と綺麗にしてるでしょう?」

        私の後から室内に入ってきた菅原さんは、キッチンの方からホットプレートを持ってき

       てテーブルに置いた。

          「本当ですね。羨ましいくらい綺麗」

       私はさっき買ってきたものが入っているスーパーの袋を抱え、キッチンに入る。 

      「あとは俺がやるから、樹理ちゃんはそこら辺に座ってて」

       キッチンに戻ってきた菅原さんはそう言うと、がたがたと包丁やらまな板を取り出す。

         「……じゃあ、お言葉に甘えて」

      私は少し迷って菅原さんの好意に甘えることにし、リビングに向かう。床に置かれた大き

     なクッションに背中を預けた途端、鞄の中で携帯が鳴った。ディスプレイには、メールの着信

     を知らせる文字が浮かんでいる。差出人は、恵美子だ。

     〈今、どんな感じ?上手くいってる??〉

      心配しているのか楽しんでいるのか良くわからない文面に苦笑し、私は菅原さんの背中を

     見ながら返信を返す。

     〈今、菅原さんの家。これからすき焼き食べる予定です〉

      そう打ち込んで送信ボタンを押したとき、ディスプレイにさっと影がかかった。

     「随分楽しそうにメールするね、樹理ちゃんは」

      すき焼きの材料が入ったホットプレートを持った菅原さんが、携帯のディスプレイを覗き込  
     んでいる。

     「彼氏から?」

        「いえ、恵美子からです。心配してメールくれたみたいで」

      私は苦笑して携帯を折りたたみ、鞄の中にしまう。

        「まったく、そんなに俺に信用ないのかな」

      菅原さんはぶつぶつ言いながらホットプレートに火をいれ、また台所に戻り卵の入った器と

     ご飯を運んできた。

     「そんなことないと思いますよ。恵美子は、菅原さんのお陰で今あんなに元気だし」

      私は目の前で湯気を立てて煮えるすき焼きを見ながら、菅原さんの言葉を否定する。

     「それは俺の力じゃなくて、あの子がそういう時期を乗り越えただけだよ」

      菅原さんはふいに真顔になり、器の中の卵をかき回す。私もなんと言っていかわからないま

     ま、器の中の卵をかき回した。

        「そろそろ煮えたかな。食べようか、樹理ちゃん」

      程なくいつもの顔に戻った菅原さんは、ほっとプレートの中のすき焼きを卵の中に放り込ん

     だ。私もぎこちない手つきでホットプレートの中に箸をいれ、肉や豆腐をすくいあげる。

        「うん、美味い。久々だから特に美味いな」

      菅原さんは力強くすき焼きを咀嚼し、顔をほころばせた。その姿を見ていた私も、恐る恐る

     すき焼きを口に入れる。

     「どう?」

        「……温かくて、美味しいです」

      感想を求める菅原さんに微笑んで、私は間をあけることなくすき焼きを口に放り込む。肉も

     野菜も豆腐もキノコも、どれも熱くて。卵につけて冷まさないと、猫舌な私には食べられない

     ほどだった。

     「そんなに勢い良く食べるとむせるよ。ゆっくり食べていいからさ」

      私の答えに満足げに頷き、菅原さんはすき焼きを食べる私を眺めて微笑む。

     「だって温かいから、嬉しくて。誰かとお鍋食べるのも、初めてだし」

     「じゃあ、この機会にたくさん食べて。俺も負けないで食べるから」

      菅原さんは私の卵の中にすき焼きを取り分けてくれ、自分の器にも山盛りのすき焼きを入れ

     た。菅原さんのその行為が嬉しくて、私は大きく頷いた。

        「あー、おなかいっぱいで苦しい……。ご馳走様でした、菅原さん」

      三十分もしないうちに菅原さんが作ってくれたすき焼きは空になり、私は軽く菅原さんに頭

     を下げた。本当はもっとちゃんとお辞儀をしたかったけれど、おなかが苦しすぎて下を向くこ

     とができないのだ。

     「お粗末さまでした。しかし、二人ともよく食べたよなぁ」

      空になったホットプレートを誇らしげに見ながら、菅原さんは 苦笑した。

     「樹理ちゃんがこんなに食べるなんて、予想もしてなかったから。ちょっと驚いた」

      菅原さんは耐え終えた食器を流しにおき、軽く水につけてリビングに戻ってくる。食事をご

     馳走になったのだから皿は私が洗うと申し入れたけれど、菅原さんは首を立てには降らなかっ

     た。

        「今日は特別ですよ。普段はこんなに食べられない」

      私は真央の前で両手を振り、苦笑する。ここまでしっかりと食事をしたのは何ヶ月ぶりか、

     もう思い出せない。

        「でも、それは俺も同じかもね。最近はずっと一人で食べるが多かったから、食事も適当だっ

     たし」

      菅原さんもクッションに座り、苦しそうに呼吸する。

        「私は、家ではいつも一人で食事をしていますよ。同じテーブルにいても、ずっと一人」

      昨日の食卓を思い浮かべ、私は表情を曇らせた。会話も温度もない凍りついた時間と、血の

     繋がった他人達の顔が私を悩ませて苦しませてきた。だけどそれを振り払うには、私はまだ幼

     すぎる。それが苛立ちとなり、吐き気となって私に襲ってくるのだ。

     「樹理ちゃんはいま、脱皮したばかりの蝶なんだよ」

      菅原さんは天井の電球を見上げながら、独り言のようにぽつりぽつりと呟きだした。私は

     そんな菅原さんの横顔を見詰める。

     「自分を覆っていた皮の存在に気付いて脱皮することはできたけど、羽が乾かないからまだ飛ぶ

     ことができなくて。凄く不安定な状態なんだ」

      天井の電球から視線をはずし、私の顔を見て菅原さんは笑った。その笑みはとても優しく

     て、さっきのすき焼きのように温かだった。

        「でも、必ず飛べる日が来るから。それまで精一杯羽を広げて、空を見上げていて」

      菅原さんはそう言って立ち上がり、鞄の中から小さな箱を取り出す。その中にはきらきらと

     輝く銀色のアゲハ蝶をかたどった、ネックレスが入っていた。

        「その羽を、俺が必ず守ってあげるから」

      私の首に腕を回し、菅原さんはアゲハ蝶のネックレスを私の首につけてくれた。私は菅原さ

     んを見上げ、胸元で羽ばたくアゲハ蝶に触れる。嬉しくて、ただ嬉しくて。私は出てこない言

     葉の代わりに、菅原さんに大きく頷いた。

     「さぁ、あまり遅くなるといけないから。送っていくよ」

      菅原さんは私の頭を撫でて立ち上がり、玄関へと向かう。私も鞄を持って、その後に続く。
        「菅原さん」

      すっかり暗くなった道を歩いて家の前に着いたとき、私は胸元のアゲハ蝶に触れて菅原さん

     の名前を呼んだ。さっきまではそれほど意識せずに名前を呼べたのに、今は気恥ずかしくてた

     まらない。 

「     「今日は、本当にありがとうございました。凄く、凄く嬉しかった」

      私は精一杯の笑顔を浮かべ、菅原さんに頭を下げた。菅原さんは笑って頷き、また私の頭を

     撫でてくれた。

        「また一緒にご飯食べよう。俺となら吐いたりしないみたいだからさ」

      そう言うと菅原さんは私にくれたネックレスのアゲハ蝶を持ち上げキスをして、気恥ずかし

     そうに苦笑する。

        「それじゃあ、おやすみ」

        「おやすみなさい」

      私は菅原さんが背を向け歩き出しても、いつまでもその後姿を見送っていた。菅原さんが守

     ってくれると言った目に見えない羽を、早春の夜風がやさしく撫でて行く。

    
      私は今。とてもとてもとてもとても、幸福だった。

Fine・