明日を泳ぐ魚

 「魚沼さん、この資料コピーとってくれる?」

 デスクの上に積み上げられた資料を必死の形相でホッチキス止めしていると、無神経な部長の声と

ともにひらひらと一枚の資料が上から降ってきた。今私がホッチキス止めしている資料は今日の午後

一の会議で使うもので、今の時刻は十二時三十七分。昼休み返上で般若のような顔をして書類と格闘

している部下に、何も考えずコピーを頼める。この部長はそんな人だ。

 「部長。僕が取りますよ」

 そのとき。デスクに落ちるより早く、隣の席の長岡主任が手を伸ばして書類を掴むとコピー機のほ

うに向かって歩き出した。私は長岡主任に感謝の意を込めた眼差しを向け、手を休めることなくホッ

チキスを操る手を止めない。

 「私は魚沼君に頼んだんだよ。君は気の利かない子だね」

 部長は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、主任の手からコピーされた資料を引っつかんでぶつぶつと呟き

ながら部屋を後にした。ばたんというドアの閉まる音がしたと同時に、長岡主任は手近な椅子に腰を

下ろす。その顔には、いつもと同じ苦笑がうかんでいる。

 「すみません、主任。コピーとって貰って」

 がしゃんがしゃんというホッチキスの音をさせながら、私は長岡主任に頭を下げた。男女雇用機会

均等法が施行されたからも、いまだ女子社員の地位は向上したとは言いがたい現実がうちの会社に存

在している。コピー取り、お茶汲み、資料閉じ。それらの仕事は必然的に女子社員の義務として付い

て回り、男性社員はそれを当然のこととして受け止めている。

 「だって、その資料遅らせたの僕だし」

 デスクの引き出しからホッチキスを取り出し、主任は芯の残量を確認している。本来ならば今日の

朝には出来上がっている筈だったこの資料が遅れた原因は、完璧主義な主任の書き直しを待っていた

ためだ。自分の企画の盲点にギリギリになってから気付き、あわてて訂正を始めたのが一昨日。それ

から今朝までほとんど寝ずに企画書を作り直したというから、凄いものだ。

 「ねぇ、魚沼さん。あの話、考えてもらえた?」

 快調な音を響かせながら資料を閉じていた私の耳元で、長岡主任はそう囁く。あわててあたりを見

渡すが、フロアには私と主任しかいなかった。

 「君が必要なんだ。他の子じゃだめなんだよ」

 弱弱しく笑う主任と目が合ったとき、私は思わず手を止めて俯いた。笑ってはいるものの、主任の

目は真剣そのもので。何よりも強く主任の気持ちを主張していた。

 「君が迷う気持ちも良くわかるけれど。僕は採算の取れない勝負はしないし、君を連れて行く以上

は君の生活を守る義務もあると思っているよ」

 「主任の能力の高さは、良く知ってます。けれど・・・」

 主任は、この会社を辞めて独立する意思を固めている。主任の持っている能力はこんな小さな会社

では発揮しきれないレベルのもので、私は入社したときから主任は独立の道を歩むと踏んでいた。し

かし・・・

 「君のサポート能力は、社内一だよ。その細やかさで僕を助けてくれないか。それに君は浅子の親

友だから。彼女も安心してくれると思うんだ」

 左手薬指の指輪を見て、主任は照れたようの頬を染める。主任の奥さんは私の同期だった浅子で、

私たちは入社以来の親友だ。彼女が専業主婦になった今でも交流はあり、よく自宅に招いたりしてく

れる。

 「……たしかに。浅子は安心でしょうね」

 いつまでたっても少女のような親友の顔を思い浮かべ、私はぎこちなく笑みを浮かべた。主任はニ

コニコと笑いながら私の返事を待っている。浅子の頼みは断れないという、私の弱点を熟知している

のだ。

 「もう一日だけ、時間を下さい」

 長い沈黙の後私が搾り出すようにそう言うと、昼休みの終了を継げる音楽が高らかに響き渡った。

いつもなら絶望の音に聞こえるその音が、今日は天使の吹き鳴らすラッパのように聞こえる。 私は

閉じ終えた資料を机の上で重ねると、気付かれないようにため息をついた。主任の近くにいるといつ

も、陸に打ち上げられた魚のような気分になる。息が苦しい。

 「わかった。いい返事を待っているよ」

 主任はそういうと、資料のホッチキス止めを開始する。その横顔を眺めながら、私はチャイムに使

われている歌を脳内でハミングしていた。いつも耳にしているのに名前も知らないその歌は、私と長

岡主任の関係に良く似ていた。いつも一緒に仕事をしているのに、主任は私のことを何も知らない。

このサポート能力は何故身に付いたものなのかさえ、知ることはない。

 (でも、それでいい)

 胸中でそう呟いてみると、悲しみも少し落ち着いてきた。知られていない方がいい。そうでないと

、私は傍にさえいられなくなる。

 私はきっと、主任と共にこの会社を去るだろう。そして自分の持てる能力の全てで、彼をサポート

するだろう。息苦しさにおびえながらも、私は陸でもがき続ける魚になるのだ。その先に主任が創造

する明日がある限り、私はもがきながらその中を泳ぐ。明日を共に泳いでいけるなら、こんな悲しみ

なんか痛くも痒くもない。

 

 「これから、がんばっていこうな」

 「はい、社長」

 それから一月後。小さな雑居ビルに構えたオフィスの中で、私は大きく彼に頷いていた。相変わら

ず息苦しさは消えないけれど、明日を共に泳いでいけるならこんな悲しみなんか痛くも痒くもない。

 『貴方が好きです』

 時々泡のようにそんな言葉を一人呟きながら、私は今日も彼の傍にいる。共に明日を泳ぎながら

―。

Fine.


  円。vol.4睦言より転載 
   2004.12.21(Tue)