メゾン・ド・シャンデールの恋

『せーの!』

 数週間ぶりにせしめた休日の朝、俺の耳に飛び込んできたのは数人の男たちの掛け声だった。せっかく

の休日を野郎の声で起こされるなんて不愉快極まりないと思いながら、俺はもぞもぞと身動きをした後に

ベッドから這い出した。

「なんだよ、朝っぱらから」

 思わず独り言を零しながら、ドアスコープを覗いてみる。その前を巨大な茶色い塊を抱えた男達が、ゆ

っくりと歩いていく。どうやら引越しをしているらしい。そういえば俺の住む部屋の隣は随分前からの空

き部屋で、大家をしている古家夫婦が時折清掃に来てはため息をついていた。

(なるほど)

さっきの掛け声の意味に得心がいった俺は、何度か頷いてからキッチンに向かう。自炊をする習慣がな

い三十男の一人暮らしに似つかわしく、キッチンにはやかんと電子レンジがあるだけだ。寝間着代わりの

ジャージ姿でやかんに水を入れ、湯を沸かす。

(それにしても、どんな人が越してきたんだろうなぁ)

 ぼんやりと湯が沸くのを待つ間、俺はもうすぐ隣人となる人のことを考え始めていた。このアパート、

メゾン・ド・シャンデールに住み始めてから三年。二階建てで四部屋しかないこの小さなアパートに住ん

でいる面子は、誰一人として変わってはいない。

 一階の左の部屋には、槙山さんという爺さんが一人で暮らしている。魚釣りが趣味らしく、よく釣り上

げた魚を分けてくれる。ごく一般的な、独居老人というやつだろう。奥さんを亡くしてから、ここに移り

住んだらしい。にこにこと、感じのいい爺さんだ。

 同じく一階の右の部屋の住人は、メイクアップアーティストとかいう仕事をしている、西部あずさ。こ

こに越してきたばかりの頃は、化粧のプロなんだから相当綺麗な女性なんだろうなと思っていたら、部屋

の中から現れたのはスキンヘッドのマッチョマンだったから驚いた。西部あずさってのは営業用の名前だ

と、後で教えてもらった。本人曰く男が好きらしいが、俺みたいな筋肉のない男はお断りらしい。まぁ、

気に入られても困るけど。

 そして二階の左側、槙山さんの上の階に住んでいるのが、俺。会計事務所で働くサラリーマン、石倉一

。三十一歳、花の独身貴族。……そう言えば聞こえはいいんだけど、要は寂しい一人もんってことだ。公

認会計士の資格を生かし独立できる日を目指して、日々奮闘中。

「新聞、新聞……」

 沸いた湯でインスタントコーヒーをいれ、マグカップを持ったまま俺は玄関に向かう。いつもは慌しく

一面に目を通すだけの新聞だが、休日の朝くらいは隅から隅まで眺めることにしている。そんな休日の朝

の楽しみが差し込まれているのは、ドアの隣に取り付けられている簡素な郵便受けの中だ。のっそりとし

た動作でドアを開け、新聞を取ろうと……

「あっ、あのどちら様ですか?」

 取ろうとしてドアを開けると、目の前には女性が一人立っていた。いや、女性というよりはまだ、女の

子というべきだろうか。日本人形のような長い黒髪の、清楚な美少女である。

「今度隣の部屋に参りました、島根と申します。ご挨拶に伺わせていただきました」

 美少女は一礼すると、にっこりと微笑んだ。俺はその笑みの美しさに負け、思わず二、三歩後ずさりし

た。こんなに綺麗に笑う女性には、ついぞお目にかかったことがない。

「あ、あぁ。えーと、石倉と申します。よろしくお願いします」

 どこか上ずった声で自己紹介しながら、俺は素早く一礼をして顔を上げた。一瞬でも長く、この美少女

の顔を見ていたい。そう思ったのだ。

「石倉さん……。よろしくお願いしますね」

 美少女こと島根さんはそう言って微笑むと、タオルの入った箱を『気持ちですが』と俺に渡して。もう

一度頭を下げて背を向けると、優雅な仕草で階段を下りていった。俺は島根さんから貰ったタオルと、小

さくなっていく島根さんの背中を交互に眺めては、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。

「綺麗だ……」

 あんな美少女が隣人になるなんて、俺にもようやく運が向いてきたかもしれない。そう思うとわけの分

からない高揚感と、万能間が沸いてくる。

「よしっ」

 新聞を取りに出たことも忘れた俺は部屋の中に戻り、タオルが入った箱を眺めながら腰に手を当てて。

まだ湯気の上がるコーヒーを、一息で飲み干した。猫舌の俺にとっては狂気の沙汰だったが、それくらい

のことをしないとこの昂りは収まりそうになかったから。

もちろんこの昂りは、精神的なものだから。局所的になにがどうした、ってことはない昂りだ。ないっ

たら、ないんだ。……多分。

「石倉ぁ、お前はいつからロリになったんだよ」

 そして翌日仕事を終えた俺は、駅前の居酒屋で同僚の鎌方と酒を飲んでいた。隣に越してきた超ど級の

美少女、島根さんのことを話すと、鎌方は遠い目で俺を見詰めてそうのたまった。

「ロリじゃないって。でもさ、その笑顔を見たらロリになってもいいかもしんねぇと思った」

 中ジョッキの中に入っていたビールを飲み干し、俺は昨日のあの笑みを思い出していた。島根さんの綺

麗なあの笑みを見たら、世の中の八割の男はくらくら来るに違いない。あの笑みは、このまま人として道

を踏み外してもいいかもしれないと、そんなろくでもないことまで考えてしまう美しさを持っている。

「しかしまぁ、お前がそこまで言うってことは相当なんだろうな」

 俺のにやけ顔に渋面をつくろっていた鎌方だったが、興味はあるらしく次第に身を乗り出してくる。

「相当も、相当。すんげぇ美少女だよ」

あぁこいつも男だなぁと、今更のように思いながら。俺はもう一杯、中ジョッキをオーダーした。島根

さんの顔を思い出しながら飲むビールは、いつもよりずっと美味い。俺は幸福が浮かんでいるようなビー

ルを飲みながら、鎌方に島根さんの美しさを、これでもかこれでもかと語りつくした。


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「ちょっとちょっと、一ちゃん」

 鎌方と別れてアパートに帰ってくると、俺の部屋の前にスキンヘッドの男が立っていた。ゲイでマッチ

ョなメイクアップアーティストで、一階の住人。西部あずさだ。

「何だよ、離せって」

 ぶっとい腕を俺の腕に絡ませ、西部はきらきらと目を輝かせている。頬には赤みが差し、まるで初恋で

もした少女のようだ。

「一ちゃんのお隣に、凄く素敵な人が来たわね。あたし、一目ぼれしちゃったわ」

 俺の抗議など耳に入っていないらしく、西部はさらに頬を赤くする。

「あの身のこなし、凛とした雰囲気。うっとりしちゃう」

 ようやっと腕を絡めるのをやめ、西部は顔の隣で両手を合わせて小首をかしげた。西部が女の子一目ぼ

れしたなんてにわかには信じられなかったが、島根さんならありえない話ではないと思い直す。あの笑み

に、西部もころっと参ってしまったのだろう。

「そうか、西部も……。俺も、危うく一目ぼれしそうになったよ。あんな若い子に一目ぼれしたら、それ

こそロリだよな」

 俺の苦笑交じりの言葉を聞いた西部は、うっとりと潤ませていた目を見開いた。

「若い子?」

「若いじゃない、どう見てもあれは十代の女の子だよ。学生さんかな」

 いぶかしげに聞き返す西部の目には、あの可憐な島根さんがオバハンに見えたのだろうか。今度は俺が

驚いて目を見開く番だった。

「あたしが見た人は、四十ちょっと前の男よ。筋肉質でいい体してた」

 四十ちょっと前の男で筋肉質……。どう考えても俺の見た島根さんと、西部の見た人は別人だ。あの美

少女が四十路前の男に見えたというなら、西部は今すぐ眼科と精神科に行くことを考えたほうがいい。

「じゃあ、俺が見たのは娘さんで」

「あたしが見たのは、その子のお父さんなのかしら」

 俺と西部は首を捻り、眉間にしわを寄せる。そしてどちらともなくふらふらと、隣の部屋の前に向かっ

た。ドアの向こうには確かに人の気配があるものの、物音は何一つ聞こえない。この中にいるのはあの可

憐な美少女か、西部が見たという四十手前のいい男なのか……。

「ちょっと、一ちゃん。これ見て」

 西部が小声で囁きながら指差したのは、ドアの真横にある表札だった。そこには立派過ぎるほど立派な

木で出来た看板が、でんと取り付けられている。

「有限会社、島根組?」

 木に刻まれた勘亭流の力強い文字は、何ともいえない迫力で何かを訴えかけてくる。

「ここは会社の事務所なのかもね」

 西部は面白くなさそうに呟くと、太い指で“島根組”の文字をなぞる。一目ぼれの男の家ではなかった

ことが、相当ショックだったようだ。自慢の腕の筋肉も、心なしか萎縮している。

「ここの社員かもしれないし、また会えるだろ」

 沈み込んだ西部を促がし、俺は隣室のドアの前を後にする。ここが会社の事務所だったとすると、島根

さんも会社に関係する人と見て間違いはないだろう。社名が“島根組”というからには、経営者の娘さん

の可能性もあるかもしれない。どちらにせよ、島根さんともこれから会える機会はあるはずだ。

「そうよね。一ちゃん、やっぱり優しいわ。大好き」

「……あんまり、嬉しくねぇ」

 スキンヘッドでマッチョな男からの“大好き”は、その気がない俺にはヘビーだ。何とも言えない不快

感に耐えていた、その時。がちゃっとドアノブを回す音がして、隣室のドアが開いた。

「それじゃあ、頼みますね」

 ドアの向こうから、穏やかな女性の声が聞こえる。間違いない、あれは島根さんの声だ。

「わかりました」

 その声に応えドアから出てきたのは、背の高い男。精悍という言葉が似合う、がっしりとした体つきを

している。

「あっ! あの人よ、あの人」

 その男を見た西部が、俺のスーツの袖を引っ張る。確かに四十手前で筋肉質の、いい体をした男だ。暗

がりで顔まではよく見えないけれど、西部が一目ぼれするのもわかるような男らしい男に見える。

「では、行ってまいります。姐さん」

 男はそう言い残すとドアを閉め、素早い身ごなしで階段を駆け下りていく。男の素早さと相反するかの

ように、男の言葉を聞いた俺と西部は、硬直したままその場で立ち尽くしていた。

「は、一ちゃん。今あの人……」

「姐さんって、言ったよな」

 看板に書かれた島根組の文字。筋肉質の男。そして姐さん。その言葉から導きだせるものは、日本人に

は一つしかない。

「もしかして、一ちゃんのお隣さんって……」

 西部の言葉も、俺の耳を素通りしていく。ショックなんてもんじゃない。身体がばらばらになるような

、立っているコンクリートの地面が溶けてしまいそうな、そんな気がする。

「ヤクザ、なんじゃないの?」

「……」

 俺は何も答えられないまま、西部を残して自室の中に入った。そしてしっかりとドアに鍵をかけると、

風呂にも入らずにスーツを脱ぎ捨てて、冷蔵庫の中にある缶ビールをぐいぐいと煽る。

「苦い……」

 数時間前に飲んだ幸福な味のする飲み物は、数時間でただの苦い液体に成り果てた。それでもかまわず

に三本を空にした後、俺は慌しくベッドにもぐりこんだ。

さっき見聞きした全てのことを、忘れてしまいたい。心からそう思って、俺は目を閉じた。

 

                                                             続く。