Melty  Love(ナイガシロニサレタオンナノノロイ)

 滅多に化粧をしない私が友人との外出に伴い、化粧をしようとして口紅を唇に押し当てた途端。そ

れはぐにゃりと曲がり、折れた。この一週間、真夏の車中に放置されたままだった口紅の逆襲。普段

は身に着けることのないよそいきのパンツの上に、薄く赤い染みがついてしまった。

 (蔑ろにされた女の呪い)

のろのろとティッシュに手を伸ばし、そんなことを思いながら柔らかな口紅を摘み上げる。熱で油

脂でできている紅が溶け、そのまま塗れば折れることぐらい予想できたはずなのに。   

私は女で、でも女を蔑ろにして生きている。俗にいう女のたしなみってものは、片っ端から排除し

て生きている。理由は簡単。面倒くさいから。

 「ちゃんと化粧をしなさいよぉ……」

 いつも通りノーメイクの私にそう言ってくれるだろう友人の顔を思い浮かべ、にやりと笑う。彼女

にそう言われる度に、少しの窮屈感と幸福感を感じるのだ。蔑ろに、ぞんざいに扱っている女という

生き物が少しだけいとおしく思えて。

 (女。おんな。オンナ……)

 折れた口紅にキャップをして化粧品を雑多に入れているボックスに放り込むと、少しだけ気が楽に

なった。ちまちまとした化粧道具を手に持っていると、なんとも言いようのないいらだちが湧いてき

て胃が痛み、背筋が寒くなる。昨日のように。

 「来月、結婚するんだ。だから、君たちにも式に来て欲しいんだけど」

 昨日いつものように仕事場で書類を作っていた時、背後で聞こえた上司の声。バラ色の人生、とい

わんばかりの幸福の暖かさが襲ってきて私は背筋が寒くなるのを感じた。

 「まぁ、おめでとうございます」

 同じように書類を作っていた先輩は大きく目を見開き、笑っていた。彼女は背筋に寒さなど感じて

いないらしく、優しいまなざしで上司を眺めている。

 「学生時代からの付き合いで、もう長いこと付き合ってきたしね」

  (年月が理由なんて、お安いことで)

 上司の幸せそうな言葉に心の中で突っ込み、私はかちゃかちゃとキーボードを押し続けた。

 「俺も彼女ももうじき三十歳だし、けじめっていうかさ」

  (三十路だからって、焦る所が器の小さい証拠)

 「ほら、やっぱり子供とかさ。早く欲しいし」

  (絵に描いたようなマイホーム、ってのが似合うタイプですもんね。狭いながらも楽しい我が家、

ですか
)

  そこまで突っ込むと私は立ち上がり、出力した資料をホッチキスで留めるために立ち上がった。

結構な枚数になってしまったため、自分のデスクにあるものでは閉じられそうになかったのだ。立ち

上がった時にみた上司の横顔は、ダリの絵のように幸福に溶けていて。私は背筋を走り抜けていった

薄ら寒さに、思わず身体を振るわせた……。

「くっ、くくく……」

待ち合わせた友人といつもと同じレストランに入り、いつものように「ちゃんと化粧をしなさいよ

ぉ……」というお小言をいただいた後。私が折れた口紅と昨日の話をすると、友人は肩を振るわせ笑

った。

「心外だな、その反応」

食後のコーヒーを極めて優雅に口元に運び、私は熱さに顔をしかめながら琥珀色の液体を飲み込む

。苦くて心地よい味がして、気持ちが静まる。

「だってさ、あんたらしいなって。そのたとえとかリアクションが」

私と違う薄い紅色の液体が入ったカップを持ち上げ、友人は納まることのない笑いの発作に耐えて

いた。

「どういう意味?それ」

「そのまんまの意味。じゃ、行こうか」

憮然とする私にそう言って、紅茶を飲み干した友人は立ち上がる。私もコーヒーを飲み終えてその

後を追う。結局、友人から答えを聞くことはできなかった。

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 『鈍感で、馬鹿で、嘘吐きな友人へ。

   次は溶けるまで放っておかない事。

蔑ろにした女の呪いは、恐ろしいからね。

気付いていたなら、溶ける前に行動しなさいな。

本当に馬鹿なんだから。

                        敏感で、聡明で、素直な友より。』

そんな手紙が添えられて小包が送られてきたのは、それから三日後のことだった。中に入っていた

綺麗で控えめな赤い色をした口紅と、友のおせっかいに少しだけ柄にもなく切なくなる。

(わかりましたよ……)

 口紅のキャップを取り、薄く唇に紅を刷く。この口紅を塗って上司の結婚式に行けば、少しは綺麗

に嘘がつけるかもしれない。

 「ご結婚、おめでとうございます」

 口に出した言葉は、空気中に霧散して消えていった。感情とか言葉とか、あらゆるものが溶けて混

ざり合って。私は、乱雑に手の甲で口紅を拭う。

  (ふぅ……)

 手の甲に付いた赤い染みを見て、私は唇を噛む。蔑ろにされた女の呪いは、まだ当分消えてくれそ

うもなかった―。
                                         

                                                            
fine