｢…斉藤君、痛い。離してよ｣

　どのくらいの時間がたったのか、片桐のかすれた声が耳に届いて俺は手を離した。さっきまでの哄

笑が嘘のように、片桐の表情は穏やかだ。

　｢大丈夫か？｣

　コートの肩先に寄った皺を丁寧に伸ばし、片桐は照れくさそうに笑った。

　｢うん。とんでもないところ見せてごめん｣

　｢いや、大丈夫ならいいんだ｣

　俺は心底ほっとして、大きく深呼吸をする。今まで涙ぐむ女の子や泣き叫ぶ女の子の相手ならした

ことはあったが、片桐のように狂いかけた女の子の相手をしたのは初めてだから勝手が分からなかっ

た。力任せに揺さぶられた片桐の身体は瞬間的にバランス感覚を失ったらしく、小刻みに揺れている

。

　｢行こうか、立ち止まってても寒いし｣

　ふらつく身体で再び片桐は坂を上り始め、俺もまだ落ち着かない心臓をなだめながら歩き出す。ど

こかの寺から、鐘を突く音が聞こえる。除夜の鐘だ。

　｢もうすぐ新年になるね｣

　手首につけた時計を見て片桐はぽつりとつぶやき、ゆっくりと腕時計を外し始める。俺も自分の腕

時計を確認すると、23：57分だった。

　｢来年は、いい年になるといいよな｣

　万感の思いを込めて片桐の顔を見ると、片桐はぷっと吹き出した。

　｢何だよ、人の顔見て噴出すなんて。失礼な奴だな｣

　｢だって、なんか年寄り臭いんだもん。同い年だとは思えないよ｣

　外し終えた時計をぶらぶらと揺らしながら、片桐はきゃはきゃはと楽しそうに笑う。いつもと変わ

らない片桐の明るさが、何故か今は眩しく見えた。

　｢あと1分位で新年だね｣

そう言うと片桐は手に持っていた時計を、野球選手のように野原に向かって投げ捨てた。

　｢おい、なんてことを……｣

　｢あれ、係長から貰った時計だから。今年のうちに捨てたかったの。今年の悲しみ今年のうちに♪

ってね｣

　どこかの洗剤メーカーのＣＭのような屁理屈をこね、片桐は大きく深呼吸をした。その顔は過去を

振り切る強い意志が滲みだしているかのように、凛とした輝きに満ちている。

　｢そろそろかな。明けましておめでとう、斉藤君。今年もよろしくね｣

　片桐は勢いよく頭を下げ、新年の挨拶を口にする。まさか2005年の幕開けを片桐とこんな形で過ご

すことになるとは思っていなかった俺は、あぁまぁ…と曖昧な返事を返すことしかできなかった。

　｢ごめんね、歩くのつき合わせて｣

　曖昧な返事を返してからいくらも歩かないうちに、片桐のアパートが見えてきた。一階の隅の、た

った一つだけ灯りのついていない部屋。そこが片桐の部屋なのだろう。

　｢別にかまわないよ。俺こそごめん、轢きそうになって｣

　｢あはは、大丈夫だよ。未遂だったんだし｣

　そんな言葉を交わした後、片桐は俺に背を向けてドアノブに手をかける。俺もインプレッサにまた

がり、発進準備を整えた。

　｢あ、そうそう。肝心な事言い忘れてた｣

　くるりと振り返り、片桐は真面目な顔で俺の目を見つめてくる。意外と大きい目をしてるんだなと

思った瞬間、俺は黒く濡れた片桐の目に吸い込まれるような錯覚を覚えた。全身を流れる血液が、い

つもの3倍のスピードで流れていく。心音もメゾフォルテぐらいの大きさからフォルテシシモレベル

まで大きくなり、ちりちりと指先がしびれる。息ができない、苦しい……。

　｢さっきの歌の歌詞。“まーつーたーけーたーべーてー”じゃなく、“松竹立てて”だからね。間

違って歌ってると恥かくかもしれないから｣

　それじゃあねという言葉を残し、たいした事のない“肝心なこと”を言い終えた片桐はドアの向こ

うに姿を消した。それと同時に俺の身体は自由

を取り戻したが、指先の痺れだけは消えなかった。

　(どうして、どうしてあいつなんだよ)

　片桐の家から自宅へと向かう道を、俺は呆然としたままインプレッサを発進させた。

　(何かの間違いだ、きっと。年明けに会えば、こんなことにはならないはずなんだ)

　力任せにペダルを漕ぐせいか、インプレッサはどんどん速度を増してゆく。俺は今自分の身に起こ

ったことを認めたくない。いや、絶対に認めない。

　(だから早く片桐に会いたい。会って確かめないと……)

俺はいまだに残る甘い痺れを振り切るように、元旦の道を駆け抜けていった。

　恋なんかじゃない。

　これは恋なんかじゃない。

　見慣れないあいつの姿に動揺しただけなんだ

　酔っ払って感じた錯覚だったはずなんだ

　だから俺は早くあいつに会って確かめたい

　この甘い痛みの正体を―。

 ｆine.

＊     青春の暴走です(笑)

甘い話ばっかり書いてるなぁ、と思いつつ。

また甘い企画話を書いてしまいました。

次こそは、次こそはグロを！スプラッタを！！