恋なんかじゃない


 恋なんかじゃない。

 これは恋なんかじゃない。

 見慣れないあいつの姿に動揺しただけなんだ。

 酔っ払って感じた錯覚だったはずなんだ

 だから俺は早くあいつに会って確かめたい

 この甘い痛みの正体を―。

 

「とーしーのはーじめーの、たーめーしーとて〜」

 20041231日、深夜2334分。俺は今愛車のハンドルを握りながら、いい気分で歌を歌ってい

る。チラチラと降る粉雪が少し目障りだったけど、しこたま飲んだ日本酒のおかげで身体は温かい。

飲酒運転をためらう気持ちはあったけれど、街灯もロクにない田舎道を歩いて帰る気はなかった。

 「おーわりなーきよーの、めーでーたーさをー」

 家までの最後の難所、寂れてめったに人も通らない墓地のある坂道に差し掛かったとき、俺は声を

張り上げ愛車のスピードを上げた。柔道と剣道の有段者で男らしいと社内でも評判の俺だが、実は人

外の化け物にはめっぽう弱い。幽霊だの狸だの狐だの、人知が及ばないもの全てに恐怖を感じるのだ

 「まーつーたーけーたーべーてー……ん?」

酔いのせいで足がもつれふらつく愛車のインプレッサ(中古のママチャリ)を駆り、ゆるい坂道を登

っていた途中。俺の視界に黒っぽい影が飛び込んできた。人影にしては生気の感じられない姿に、ぞ

くりと背中があわだつ。

「斉藤君?」

その時人影は振り返り、小さな声で俺の名前を口にした。長く黒い髪がゆうらりと、不気味にうご

めく。俺は背中に冷や汗が流れ出したことに気付きながら、きつくインプレッサのハンドルを握った

。柔道と剣道の有段者で男らしいこの俺が、物の怪なんかに怖気づいてはいられない。そう思うと、

前進に勇気がみなぎってくる。

「で…出やがったな、化け物!チェストォォォ!!」

俺は渾身の力でペダルを漕ぎ、化け物を成敗しようと突っ込んでいく。

「こ、この馬鹿者!!」

化け物はそう言うと、思い切りインプレッサのタイヤを蹴り上げるという反撃に出た。二輪のタイ

ヤではその攻撃を避け切れず、俺は積もったばかりの雪の上に愛車もろとも倒れこんだ。

「おのれ、化け物……あれ?」

 全身に付いた雪を払いながら愛車の下から起き上がり、俺は化け物をきつく睨みつける。しかし……。

 「誰が化け物よ、この酔っ払い」

 そこに立っていたのは同じ会社に勤める、同僚の片桐だった。片桐は小さな身体に怒りのオーラを

漲らせ、俺を見上げている。

 「名前を呼んだだけで、なんでひき殺そうとするわけ?最低な男だね」

 静まり返った辺りに響き渡る、片桐の怒声。俺は耳を塞いでしまいたかったが、自分に非があるこ

とは明白なため反論もできない。

 「自転車でも飲酒運転は禁じられてるんだよ。私が化け物に見えたのはいいけど、これが美人受付

嬢の坂本さんとかだったらどうするの?」

 「ちょ、ちょっと待て片桐」

 止まることを知らない片桐の説教に片手を上げて口を挟み、俺は眉を寄せた。片桐の言葉が理解で

きなかったのだ。

 「俺が酔っ払い運転で、お前を轢きそうになったのは悪かった。謝るよ、ごめん。だけどお前、化

け物に間違えられたことは怒ってないのか?」

 いくら心の広い女でも、化け物呼ばわりされればそのことに対して憤りを感じるはずだ。だが片桐

は“化け物に見えたのはいい”と、あっさりと口にした。それが俺には理解できない。

 「うん。だって、私だから気にしないよ。美人だったら気にするけどさ、私みたいなのはそんなの

慣れっこだからね」

 黒いコートのポケットに両手を突っ込んだまま、片桐はにいっと歯を出して笑う。俺はそれ以上そ

のことについては何も言えず、そんな片桐から視線を逸らした。

  「ところで、こんな時間に何でここを歩いてるんだよ?」

 「遊びに行った帰り。自分の車じゃなく、乗せてもらったから歩きなの」

 冷たい風に顔をしかめ、片桐は軽く手を振って歩き出した。小柄な片桐の背中が闇の中ではさらに

小さく見え、俺はあわててその背中を追いかける。

 「帰りは送ってもらわなかったの?」

 何気なく言った言葉に片桐は足を止め、愛車を押しながら歩く俺を振り返った。

 「…人には事情というものが在るのよ、斉藤君」

 弱弱しい光を放つ街灯の真下にいるせいか、片桐の顔はぼんやりと青白く見える。その姿はさっき

まで俺を馬鹿者呼ばわりしていた片桐とは違う、別の誰かのようだった。

 「事情、ね」

 俺はそう言うと片桐の隣まで歩を進め、並んで歩き出す。坂の頂上は、まだ見えてこない。

 「別に、いいよ。先に帰っても」

 片桐が気遣うためにかけてくれた言葉に、俺は首を振って歩き続けた。この坂を上りきれば、片桐

の家がある。そこまでは一緒に歩いていこうと思ったのだ。

 「…尾上係長と不倫してたんだよ、私」

 「えっ?」

 ふいに片桐が口にした言葉に、今度は俺が立ち止まってしまった。尾上係長は俺や片桐の直属の上

司で、単身赴任はしていても愛妻家としても有名な人だ。そんな人が不倫をしているなんて、俺は一

度も考えたことがなかった。

 「でもね、捨てられた。今さっき捨てられたんだよ」

 俺に合わせて阿智どまりくっくっとのどの奥で笑う片桐を、俺は何か不気味なものでも見るように

眺めた。普通不倫の終わりには涙の一つも流して、終わった関係を思い起こしているものではないだ

ろうか。それなのに片桐は、何がおかしいのか笑っているのだ。

 「こういうパターンってさ、普通奥さんのところに戻ってくもんじゃない?でも尾上係長は違った

んだよ。離婚届と婚姻届書いて、提出する準備をしてたんだよ」

 「……どういうこと?」

  “離婚届と婚姻届”を書いている係長と、捨てられたのに笑う片桐。自分の職場内で起こってい

た恋愛事情を知らなかった俺は、ただ首を傾げるばかりだ。

 「婚姻届に書かれていた相手の名前は、坂本かおり。つまり係長は奥さんと離婚して、受付の坂本

さんと結婚するつもりなんだよ」

 あんまりにも笑いすぎて息を切らしながら、片桐は真相を教えてくれる。俺はまた立ち止まり、笑

う片桐の姿を見て眉を寄せた。痛々しい、そんな言葉が浮かんでは消える。

 「どういうことか?って聞いたらね、私とは最初から遊びだったんだって。でも坂本さんとは本気

だったんだって。美人で儚い雰囲気の坂本さんと綺麗でもない私なら、坂本さんを選ぶのは当然だろ

うって係長は言ってたよ。そりゃあそうだよね、私より坂本さんの方が綺麗で性格も良いもん。仕事

もできるもん。私なんかより……」

 「片桐!おい片桐!!」

 俺は狂ったように笑いながら言葉を吐き出す片桐の肩を掴み、力任せに揺さぶった。このままでは

片桐が壊れてしまう、そんな恐怖に突き動かされて。



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