ヴァンパイア・キス

 

「痛っ」

 唇と唇が離れた瞬間、私は思わずそう呟いた。下唇にちりっと痛みが走ったのだ。私にそんな痛みを与え

てくれた男は、目の前でにやりと笑っている。どうやら謝る気はないらしい。私は男の体を突き放し、顔を

見上げた。

「痛かったんだけど」

 私がぶっきらぼうにそう抗議しても、男は笑ったままだ。男の名前は嵯峨恵一。数ヶ月前から付き合って

いる恋人で、二十六歳歳の私より十二歳年上の三十八歳。普段は娘みたいな年の私をすごく可愛がってくれ

るんだけど、嵯峨さんには一つ困った癖がある。それは……。

「あー、もう。下唇傷だらけ」

 キスをする度に、私の下唇を噛むこと。軽いキスでもディープなキスでも、最後の儀式のように下唇に歯

を立ててくる。そのたびに下唇に小さく割けた傷ができて、塩気のある食べ物なんかが染みてしまう。鏡の

中の私の唇には、うっすらと血さえ滲んでいた。

「ごめんね」

 鏡の中の唇を見ながら眉を寄せている私に、ようやく嵯峨さんが謝罪の言葉をかけてくる。私は手を伸ば

して嵯峨さんの鼻を、ぎゅっとつまんだ。嵯峨さんが痛そうに顔をしかめる。

「悪いと思うなら、反省して二度としないでください」

それだけ言うと、私は嵯峨さんの鼻を解放してあげた。でも今日という今日は、嵯峨さんにこの悪癖をや

めてもらう必要がある。今日は私のアパートでの流血騒ぎだったから良かったものの、この間なんか真昼の

公園で血を出してしまって遊んでいた子供を泣かせてしまった。その前は居酒屋の個室で、注文した商品を

運んできた店員さんが驚いて料理をひっくり返してしまった。嵯峨さんのこの癖は私だけではなく、他の人

にも迷惑をかけているのだ。

「うん、しない。と言いたいけど……」

 嵯峨さんは神妙な顔でそう言うと、私の後頭部に手をかけた。そのまま私の体を引き寄せ、嵯峨さんの唇

と私の唇がまた重なる。薄い嵯峨さんの唇が温かく感じられ、私は目を閉じた。

「痛っ」

 また唇が離れた瞬間。私の下唇に痛みが走った。また嵯峨さんに噛まれたのだ。

「無理。どうしても、最後にこうしたくなる」

 私が抗議の言葉を口にするより早く、嵯峨さんが小声で呟く。そして私の頭を、胸の中に抱え込んだ。

「駄目です。無理でもなんでも、やめてください」

 嵯峨さんの腕の中で、わたしはもごもごと抗議する。嵯峨さんは私の唇を噛めば満足なのかもしれないけ

れど、その後のケアをする私の身にもなって欲しい。リップも口紅もつけられないくらいの傷になったとき

なんて、化粧をしても顔が決まらなくて本当に困る。

「吸血鬼じゃないんだから」

「ははは。そんなこと言われたのは初めてだ」

吸血鬼という言葉が気に入ったらしく、嵯峨さんは肩を揺すって笑った。私の体にも、嵯峨さんの笑う振

動が伝わってくる。

「でも吸血鬼と違うのは、君の唇しか噛みたくないってとこだね」

 私を抱く手を離し、嵯峨さんは血の滲む私の下唇に指先で触れた。その指先が傷に触れると、ぴりりと痛

みが走る。

「君に少しでも、俺の何かを残しておきたいから。つい噛んじゃうんだ」

 キスマーク程度じゃ物足りないしね、と付け加えて嵯峨さんは笑う。私は嵯峨さんの手を払いのけて、立

ち上がった。嵯峨さんも立ち上がり、私の顔を覗き込んだ。

「そんなこと言えば、私が騙されるとでも?」

 わざとらしく腕組みをして、嵯峨さんの顔を見上げると。嵯峨さんはいつもと同じように、やさしく笑っ

ていた。私がその笑顔にぼんやりと見入っていると、嵯峨さんは気恥ずかしそうに視線を逸らした。

「騙すつもりはないんだけど、ね。ただ君といると、キス一つでさえ我慢できなくなるんだよ」

 そんな言葉を聞いた私はうれしくなって、爪先立ちで嵯峨さんの頬にキスをした。こんなことをすればま

た唇に傷が増えることくらいわかっているけれど……。我慢できないのは私も同じだから、どうしようもな

い。

「また吸血鬼に噛まれるよ?」

嵯峨さんが私の耳元で囁く。私は大きく頷いて目を閉じる。

「じゃあ、遠慮なく」

 下唇にちりっと痛みが走っても、今度は唇を離さない。甘くて痛い吸血鬼のキスを、もう少しだけ味わっ

ていたいから―。

 

「あー、もう……」

 翌朝。化粧をしようと鏡の前に座った私は、思わずそう呟いた。昨日嵯峨さんに散々噛まれたせいで、下

唇は傷だらけだ。ここまで来れば口紅もリップも塗ることはできない。

(絶対あの癖直してもらわなきゃ)

 傷だらけの唇に触れながら、私は固く決意する。

 私の指の下で、唇の傷はずきずきと甘く痛み続けていた。

 

Fine.

 

 

 

 

**蛇足**

いつもお世話になりっぱなしの、“月、ノカケラ”の皐栄様のキリリクです。SWEET PAIN(甘い傷)

そのリクで、何をどうしたらこんな恥ずかしい駄文ができるのか……。自分の文才のなさを痛感しました。

精進あるのみ、ですね……。      進命