朝が来るまでは―  

 

 「朝が来るまでは、待っているつもりなんだ」

 「そうだな、その方がいい」

 俺は白み始めた空を見上げ、相槌の言葉と共にほうっと小さくため息をついた。冬の外気に冷やさ

れた俺の想いが、白く大気中に残る。

 「そうじゃないと、後悔すると思うから」

 まるで雪だるまのように着膨れたカスミは、やわらかく微笑しながら鼻をすすり上げた。化粧気の

ない頬は、寒さで真っ赤だ。

「もう、ほとんど期待はしてないけど」

 そう言って苦笑するカスミが待ち続けているのは、この世界のどこかにいるはずの恋人のタクマだ

。三年前のクリスマスに、タクマはカスミを残して失踪した。借りていたアパートも解約し仕事も辞

めて、誰にも何も告げずに消えたタクマ。

 「そんな悲しいこと言うなよ」

 俺はカスミの頭をぽんぽんと叩き、コートのポケットからライターを取り出して煙草に火をつけ

た。

最後にタクマと会ったときに借りたまま返しそびれているこのライターを使うたびに、俺の心はじ

くりじくりと痛む。親友だったのに、タクマが何を考えていたのかさえ知らなかった自分が情けな

い。

そしてもう一つ。俺にはあいつに対して、罪の意識を感じずにはいられない理由がある。それ

は……。

「悲しくなんかないよ。第一、私が勝手に期待しているだけだもん。付き合って五年目のクリスマ

スに結婚するっていう、夢みたいな約束を」

カスミは背伸びをして俺の手から煙草を掠め取ると、ぎこちない手つきで口元に運んだ。

「苦っ。タクマのを吸わせてもらったときも思ったけど、アツシ君も良くそんな苦いの吸えるよ

ね」

けほけほと咳き込みながらカスミは俺に煙草を付き返し、自分の煙草に火をつけた。カスミの煙草

はニコチンもタールも一ミリで、軽くて細い煙草。しかもメンソール。俺やタクマには、物足りない

味だ。

「人には好みってもんがあるから。お前にはその軽いのが似合ってるってことだよ」

カスミに付き返された煙草を吸い込み煙を吐き出しながら、俺は大げさに肩をすくめて見せた。い

つもと同じ心地よい苦味の中に混ざる、微かな甘さに気付きながら。

「なんか馬鹿にされてる気がしないでもないけど……。その通りかもしれないな」

律儀に熊のイラストが付いた携帯灰皿に灰を落とし、カスミは上目遣いで空を見上げた。明けの明

星が光っているだけの空にはオレンジ色の光が浸食を開始していて、腕の時計を見なくても夜明けが

近いことが一目で分かる。

「あと三十分ぐらいで、日が昇るな」

なるべく感情を滲ませないように俺はそう呟き、足元に煙草を投げ捨てた。赤く光る先端を靴底で

揉消し、そっとカスミに視線を走らせる。

「アツシ君。ポイ捨て禁止だって、いつも言ってるでしょ!」

カスミは空から俺に視線を転じ、小型犬がキャンキャン吠えるように俺を叱り付けた。モラリスト

のカスミにとって、煙草やゴミのポイ捨ては許しがたい行為らしく、何を差し置いても叱責しないと

気がすまないらしい。

「はいはい、分かりましたよ。モラリストさん」

 俺はわざと面倒くさそうに呟き、揉消した前かがみになって煙草を拾い上げる。カスミの顔に浮か

んでいた悲しみと絶望が一瞬でも消えるなら、俺は今この場で全裸になって裸踊りをしてもかまわな

い。

そう、カスミが少しでも笑ってくれるなら。プライドや羞恥心など安いものだ。カスミは俺の大事な

親友の恋人だから。そして……俺がずっと想い続けてきた唯一の女なのだから。俺はカスミのためな

ら何を犠牲にしてもいいと、心から思う。

 「よろしい。あ……タイムアウトかな。もう26日だね」

 満足そうに頷いたモラリストの顔にオレンジ色の光が注ぎ、哀しそうな声が当たりに響く。夜の闇

をかき消し。朝日が燦然と輝き始めたのだ。

 「やっぱり来てくれなかったね、タクマ」

 眩しいオレンジ色の朝日に向かい、カスミは泣いているような笑っているような顔でそう言った。

俺はその横顔を見ながら握りこぶしを作り、カスミを抱きしめたいという自分の衝動を押さえ込んで

いた。

 「私が嫌いになったなら、ちゃんと言ってくれれば良かったのに。黙ったまんまって、一番卑怯だ

よ」

 涙さえ零さずに、淡々と零れ落ちるカスミの言葉。三年という月日がカスミに吐かせる言葉は、あ

まりにも重い。

 「ごめんね、アツシ君。朝までつき合わせて」

 俺の顔も見ずに、カスミは謝罪の言葉を口にする。心ここにあらずということが一目で分かる、呆

然とした顔で。

 「俺はいいんだ。お前が良ければ」

 握り締めていた手を開き、俺はまたカスミの頭をぽんぽんと叩く。本当は着膨れて冷え切った身体

を抱きしめて、三年間ずっと募らせてきた想いを吐き出したかった。お前には俺がいると、気障な台

詞だけど言ってみたかった。

だけど、そうしたら俺は卑怯者になってしまう。悲しみに付け込むなんて、俺のプライドが許さな

い。だから今は、これでいい。

 「さ、行こうか」

 オレンジ色の光を全身に浴び、カスミは俺の手を握った。俺は驚いて手を離そうとしたが、カスミ

はそのまま歩き出そうとする。

 「ちょ、ちょっと待て。手を離してくれ」

 「煩いなぁ。そんなに私に触られるのが嫌?」

 俺の懇願を憮然とした表情で無視し、カスミは歩き出す。引きずられるようにして俺も歩き出した

が、頭はいまだ混乱したままだ。

 「ご飯食べに行こう、ご飯。アツシ君に奢ってもらうつもりだから、帰られたら困るんだよね」

 繋いだ手を子供のようにぶんぶんと振り回し、カスミは少し遅れて歩く俺をにやりと笑って振り返

る。

 「何だよ、そりゃ。俺はお前のパトロンじゃないぞ」

 今財布の中にどのくらいの金があったかということを瞬時に計算しながら、俺はカスミの強がりに

付き合う。こいつはこういう女だ。誰かが傍にいても一人でも、泣けない女なんだ。だから、強がっ

ていなければ生きていけない。そしてそのことを、俺はよく知っている。

 「いいじゃない、ちょっとくらい奢ってくれても。あ、私は蕎麦がいい。あったかい天ぷら蕎麦」

 朝一に天ぷら蕎麦かよ、俺はカスミの言葉に苦笑しながら空いている方の手をコートのポケットに

突っ込んだ。天ぷら蕎麦程度なら、奢るくらいの財力はある筈だ。

「わかったよ。じゃあ、駅の立ち食い蕎麦で……」

「えーっ、立ち食い?私とアツシ君の友情なんてそんなもんだったのぉ。あぁショック……」

  繋いだ手を振り回しながら、俺とカスミは街を歩く。冬の朝特有のびりびりとした空気が俺達を

包むけれど、繋いだ手だけは温かい。

 「この時間だぞ?立ち食いくらいしかやってないだろ」

 「うーん……。あ、駅前の定食屋は?頼めば蕎麦くらい出してくれるんじゃない?」

 本当はこんな話じゃなく、俺がどれだけカスミを想っているかを話したかったけれど。今はこれで

いいかと、俺は胸中で一人呟く。

 「ぼろい所だけど屋根と壁があるから、立ち食いよりはマシだよ」」

 「じゃ、そうするか。俺は鍋焼きうどんにするかな」

 カスミの笑みの向こうにある悲しみが薄れて、前のように明るく笑える日まで。俺はただ傍にいる

。全てを隠して傍にいる。

 「あ、鍋焼きもいいな。ちょっと味見させて」

 「分かった。その代わりお前の天ぷら蕎麦も少し寄こせよ」

 カスミの心に、悲しみを受け入れられる朝が来るまでは―。

fine.


*クリスマス企画第一弾*
   失踪ネタ、好きですね。私……(笑)
   今回のテーマはずばり、“待つ男”です。

     いやー、アツシ君は忍耐力ありますね。
   普通だったら定食屋じゃなく、もっとこう。ね?
   そっち系の所にでも……(強制終了)。