百花繚乱


  「さっさと帰りなよ、あんたなんか」

 砂埃の舞う坂の上で、お菊は安銘仙の袖を振った。ぺらぺらと薄いくせに柄だけは派手な銘仙は、

風に遊ばれひらひらと揺れる。

 「分カッテイマスヨ。デモオ別レノ時クライ、素直ニ泣イテクレタッテイイデショウ?」

 くすんだ金色の髪が月の光を浴び、エドワルドの顔をくっきりと浮かび上がらせた。幕府から国外

退去を命じられた罪人の顔は、不気味なほど凪いでいる。

 「誰が泣くもんか。あたしの涙が見たかったら、千両箱でも持って来てみなよ。そしたら泣いてや

るから」

 お菊は大きな目に涙を浮かべながら、エドワルドに啖呵を切ると坂を物凄い勢いで駆け出していっ

た。

 「追わないのか?」

 私がそう言うと、エドワルドは首を横に振った。

 「光明殿ハ幕府ノオ役人ナノニ、私ヲ気遣ッテクダサルノデスネ。今彼女ヲ追エバ、私ハ逃亡シテ

シマウカモシレナイ。光明殿ニ迷惑ガカカリマス」

 私はエドワルドに対する申し訳なさに身をすくませ、お菊の駆け上っていった坂を見つめた。ここ

は長崎、多くの唐人が行き交う日本の中の異国。お菊とエドワルドのような関係も、消して珍しくは

ない。

 「…エドワルド殿。お菊をつれて帰りたいか?」

 ふいに口を付いて出た言葉に、エドワルドより私が驚いた。

 「私は、お前さんとお菊の問題が片付いたら隠居するつもりじゃ。だから最後に、己の良心の呵責

を少しでも軽くしとうてのう」

 すっかり白くなった髷に手を触れながら、私は自分の半生を思い起こす。幕府の役人としてこの出

島に渡り、唐人どもが規律に違反することがないか目を光らせて。酒を飲み妻と語らいながら、まっ

とうに生きてきたつもりだ。ただひとつ後悔があるとすれば、唐人と遊女たちの恋をいくつも壊して

きたことだろう。

 「本気ナノデスカ?トテモ危険ナ事デスヨ?」

 「あぁ、わかっておる。明日の朝、オランダ商船が港に着いたら。それに乗り、二人で国に向かう

がいい」

 私はほんの些細なことで幕府の怒りを買い、国外退去を命じられた唐人たちの顔を思い出す。ジョ

ルジュ、ニコラス、テオドール。皆気のいい奴らだった。そしてそんな唐人たちと引き裂かれ、この

坂の上で奴らを見送る遊女たちの涙も同じように浮かんでは消える。

 「私に償いをさせてくれ」

 私がそう言うと、エドワルドはゆっくりと十字を切った。

 「光明殿、アナタノ罪ハ赦サレマシタ。神ガ赦サナクテモ、私が赦シマス」

 エドワルドはにっこりと笑い、私の手を取る。

 「私ハ、明日母国ニ帰リマス。一人デ帰リマス」

 そう言ったエドワルドの顔は、切腹を決意した武士の顔によく似ていた。もはや誰が何を言っても

、エドワルドを止めることは出来ないだろう。

 「光明殿。私ノ最後ノオ願イ、聞イテクレマスカ?」

 痛みを感じるほど握り締められた手のひらから伝わるエドワルドの想い。私は万感の思いで、深々

と頷いた。

 「私ガ母国ニ帰ッタ後ノ、オ菊ノコトヲオ願イシマス」

 「…承知した」

 帰る場所のある唐人たちと異なり、残された娘たちは洋妾と呼ばれ蔑みと非難の的になる。石を投

げつけられ、子供らに罵られて生きねばならないのだ。その為あちこちを転々としなければならなく

なる者や、悲しみのあまり岬から身を投げる者も多い。

 「私に出来る全てをもって、お菊の身は守ると約束しよう」

 エドワルドは私の言葉に何度も頷いて、白玉のような涙をこぼした。私の眼にもじんわりと涙が滲

み、エドワルドの顔も辺りの景色もぼやけて写る
.

 「コノ坂トモ、コノ街トモ。今日デオ別レデス。光明殿、世話ニナリマシタ」

 その時、坂の向こうに駕籠を担いでやってくる人足の姿が見えてきた。エドワルドに国外退去の処

分を下すため、長崎奉行所からお役人がやって来たのだ。

 「……達者でな」

 「……ハイ」

 一陣の西風が吹きすぎる坂の上で、私はエドワルドを見送った。この出島に暮らす人間の、見送り

にさえ来られない遊女であるお菊の名代として。エドワルドを載せた駕籠が行くのを、ただ見送った


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 「お役人さん。あれが、エドワルドの乗った船かい?」

 昨日私がエドワルドと別れた坂の上で、お菊は広い海洋に浮かぶ大きな商船を指差した。黒い煙を

吐き、はるか異国へ向かう船は少しずつ小さくなってゆく。

 「そうかも知れんのう。あの中にエドワルドがいるかもしれん」

 私がそう言うと、お菊は地面に置いていた風呂敷包みを開き始めた。中にはお菊愛用の三味線が入

っている。

 「エドワルドはね、あたしの三味が好きだったんだ。三味を聴きながら、いつか所帯を持とうなん

て夢みたいなことを言ってくれたもんだよ」

 お菊は立ったまま不恰好に三味線を構えると、風に銘仙の袖をはためかせながら商船に向けて三味

を弾き始めた。ざっかけで色気のないお菊が弾いているというのに、その音は美しく艶めいている。

 「エドワルドのために弾いたのか?」

 最後の一音が秋空に消えた頃合を見計らって、私はお菊に尋ねた。芸事にはまったく通じていない

私にでも、お菊の三味が恋の切なさに満ちていることだけは理解できた。

 「半分はね。残りの半分は、この坂であたしやエドワルドみたいに生き別れた人たちのためさ」

 風呂敷に三味線を包み、お菊は商船が消えていった方角に目を凝らす。もはや煙さえ見えないほど

、船は遠くに行ってしまった。

 「きっと何人もの女が、この坂で泣いたんだろうなと思うとね。同じ思いをした女達にあたしがし

てやれるのは、こんな程度だけどさ」

 そう言って風呂敷包みを持ちあげ笑うお菊の姿を見たとき、私は童に返ったようにしゃがみこんで

声を上げ泣き崩れた。いい年寄りが泣き崩れるのを見たお菊は、慌てて私の前にしゃがみこむ。

 「どうしたってんだい、お役人さん?」

 「すまない……。本当にすまない……」

 私はお菊の顔を見られずに俯いて、そう繰り返すだけだった。私の真の罪は、恋仲の男女を引き裂

いてきたことではない。そのことの非道さに気付きながら、幕府に直訴もせずその命に従ってきたこ

とだったのだ。

 「私は、何もしてやれなかった。お前のような娘たちにも、母国へ帰る唐人たちにも。すまなかっ

た……」

 この坂で見てきた全ての光景が、私を執拗に苛む。お菊は無言のまま風呂敷包みを置き、私の肩に手をかけた。

 「お役人さん。立ちなよ、立って海を見な」

 諭すようなお菊の言葉に促され、ふらふらと立ち上がった私は坂の上から海を見た。どこまでも青

く凪いでいる海は、秋の陽光を浴び照り輝いている。

 「この海を眺めるとね、あたしは元気になれるんだよ。きっとあの向こうには、エドワルドがいる

んだと思ってね」

 お菊は届くはずも無い海に向かって手を伸ばし、顔をくしゃくしゃにして笑った。

 「九つの時に、おとっつあんが死んで。貧乏な家だったから、私は芸者になったんだ。そのころの

あたしときたら、悲しみを悲しみだと感じないくらい不幸だったのさ。ご覧のとおりざっかけで色気

などないもんだから、なかなかなじみの客も無くてね。姐さんたちのお座敷で地方をして、なんとか

喰いついでたんだよ」

 お菊の言葉は風にさらわれ、すぐに消えてしまうほど小さい。私は一言も聞き漏らさないよう、息

さえ潜めてお菊の言葉に耳を傾けた。

 「そんな時、エドワルドが来てね。あたしのざっかけなところが気に入ったなんて言って、毎日の

ように通うようになったんだ。その頃からあたしにとってエドワルドは、大切なお客というよりはた

だ一人の特別な男になったのさ」

 すうっとお菊の顔から笑みが消え、色も失われる。能面のようなその表情は、微動だにしない。

 「お役人さん、大事なのは気付いたことなんだよ。気付かないで死んでく奴がいっぱいいる中で、

お役人さんは気付いた。それだけでも立派なことさ」

 次第に強くなり始めた西風が、私とお菊に吹きつけ始める。お菊はしゃんと背筋を伸ばし、風の中

に佇んでいる。

 「エドワルドは、あたしに悲しみも、幸せも気付かせてくれた。だからエドワルドが阿蘭陀に帰っ

た今も、あたしは立っていられる。洋妾といわれても、石礫を投げつけられてもね」

 海を見つめていたお菊は並び立つ私に視線を向け、嗚咽も漏らさず一筋涙をこぼした。その瞬間ど

うっと強風が吹きぬけ、お菊の涙を吹き飛ばした。銘仙に描かれた花びらが、まるで花吹雪のようだ。

 「花が……」

 私は思わずそう呟き、手を伸ばした。そこにはこの坂で咲いては散っていった恋のあだ花たちが、

花吹雪となって舞っていた。百花繚乱といっても過言ではないほど、その花たちは美しく儚い。

 「あたしを、最後にしてくれないかい?こんな思いをする女は」

 花吹雪の向こうから、お菊の声が聞こえる。私は冷たい西風の中で咲いた花を、いつまでもいつま

でも眺めていた。

 

 この国は、変わらなければならない。悲しみの花が散り終えるまでに。この国は、変わらなければ

ならない。二度とこの花が咲き誇ることが無いように。


 坂の上で銘仙の袖を揺らし、手を振り別れるために彼女たちの手はあるのではない。恋い慕う男と

抱きしめあうために、その手はあるのだから―。

―終―