恋の残滓

    炎が燃える。

    暗闇の中で、静かに燃える。
    
    私はこの炎に焼かれることを夢見ながら、炎から一番遠い場所にいる。

    かつて炎に己が想いを託した罪深き女のように、私も炎に誰かの影を見たい。

    だけど炎は私の心など知らず、ただゆらゆらと不実に揺らめくだけだ。

    炎が燃える。

    暗闇の中で、静かに燃える。


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     「で、どうするのよ?」

    喫茶店のテーブルの上に広げている書類を手にした友人の間中静香は、ぼんやりとしている私に

   詰め寄った。私は何も答えられないまま、頭を掻く。何と答えたものか、言葉が浮かばないのだ。

    「いい?これを出してきたってことは、相手は覚悟を決めたってことなのよ」

    私の態度にいらついたのか、間中はテーブルをどんと音を立てて叩いた。周りの客の視線がこち  
   らに向けられてくる。好奇の視線を注いでくる連中に威嚇の視線を送った後、私はテーブルの上の

   灰皿に手を伸ばした。

    「私で妥協する覚悟を決めた、ってことよね」

    間中の手の中にある書類を取り返し、紫煙を吹かす。書類の上には“婚姻届”という文字があり

   、鈴木透という名前が書き込まれ印鑑が押されている。昨日の夜、一年ほど付き合っていた透が私

   にこれを手渡してきた。結婚しないか、という言葉とともに。

    「そんな夢も希望もないこと言わないの。って……私が言えた義理じゃないけどさ」

    くわえ煙草で書類を見詰める私を、間中はたしなめてくれる。今は間中の左手に指輪はないけれ

   ど、過去にはそこにきらきら輝くダイヤモンドリングがあった。結婚が輝かしい物だということの

   象徴のようなあの指輪を、間中は捨ててしまったのだ。夢も希望もない結婚生活の思い出と共に。

    「あはは。でも、ね。いまいちピンとこないのよ」

    私は煙草を灰皿に押し付け、最後の紫煙を吐き出した。結婚ということと自分が結びつくことが   
   、いまいち良くわからない。

    「まぁ、そんなもんなのかもしれないわね」

    「うん。透と結婚ってことがピンとこない」

    デートもセックスも、数え切れないほどしてみた。喧嘩だってそれなりにした。だけど透と私の   
   曖昧模糊とした関係が、急に結婚という実像を纏う……。そのことが私には納得できなかった。

    「ともかく、好きで好きでしょうがないっていう気持ちはないからだと思うけど」

    互いに忙しくて逢えない日が続いても、透に会える日を指折り数えたりはしなかった。他の女の

   子と遊園地に行ったときだって、そのことを隠していたことに腹が立っただけだった。誕生日に貰

   ったリングも、デートのとき以外は外している。好きで好きでしょうがないと思っているなら、こ

   んなことはしないような気がする。

   「うーん、難しいわね」

     「本当に」

    私と間中は婚姻届を見詰めながら、溜息をつく。答えの出ない問題が思考回路の中をぐるぐると

   回り、私たちの脳みそを掻き回していた。

    「まずは、ゆっくり考えてみなよ」

    そんな言葉を残して間中と別れた後。私は自分の家に帰り、二階にある自室で婚姻届と再び向き

   合っていた。一階のリビングからはテレビの音と、両親の笑い声が聞こえてくる。もう何十年も夫

   婦をやっているのに、私の両親達は仲がいい。一度だけ、私は母親からその秘訣を聞いたことがあ

   る。

   『一日に一回、何か一つ相手の喜ぶことをしてあげよう。そう思うことよ』

    父の大好きな揚げ茄子を作りながら幸せそうに笑っていた母は、きっと父が好きで好きでしょう

   がないと思って結婚したに違いない。そうでなければ、あれほど幸せそうに笑えないだろう。

   『お父さんは私にとって、世界一格好いい男なの』

   『お母さんは俺の宝物だ。こんないい女は二人といない』

    何度か見せてもらった新婚時代の写真より母は明らかに太り、顔の皺も深くなった。父も頭が薄

   くなり、下腹がせり出してきている。それでも、二人はこういう。そんな恥ずかしい両親を見て育

   ったせいで、私は愛に対して冷めてしまっているのかもしれない。

     「……」

    私は携帯電話を取り出すと、透の携帯に電話をかけた。もう一度だけ、透が本気なのかを確かめ

   たかったのだ。

     (一回、二回……)

    無常なコール音が響く。私はさらに強く携帯を耳に押し当て、馴染んだ声が響くのを待つ。

   『何?』

    数回のコール音の後、透の声が聞こえてきた。だけど聞こえてきたのは、それだけじゃない。き

   ゃあきゃあと騒ぐ女の声も一緒に聞こえている。

   『今、どこにいるの?』

    『あー、会社の飲み会』

    少しだけ、透の声が震えているのがわかった。多分、女の子といるのだろう。私は電話の向こう

   の光景を想像してみたけれど、怒りさえ湧いてこなかった。

   『ねぇ、透。どうしたの?誰から??』

    携帯の向こうから、甘えを含んだ女の子の声が聞こえてきた。

   『もしかして女の子?あたしと二股かけてたの??でもどんな女より、あたしが透を一番愛してる

   の!』

   『ば、馬鹿。お前……』

    透は焦りを隠せないらしく、言葉にならない言葉を繰り返している。そんな言葉を黙って聞いて

   いた私は、自分の迷いの答えを見つけた。明らかに浮気をしているとわかっても、悲しみも何も感

   じない私は。透と結婚するべきではないのだ。

   『ゆっくり楽しんでね』

    私はそう言うと、電話を切った。今までの悩みが晴れたせいか、心が少し軽くなっている。私は

   透を責めたりはしない。この恋愛に本気ではなかったのは、私も同じだから。透を心から愛してい

   る女の子と幸せになれるようにすることが、私が最後に透にしてあげられることだ。

     (これで、良かったのよね)

      部屋の電気を消し、婚姻届をびりびりに引きちぎって少し灰皿に入れると。私はその中に喫茶店

   で貰ったマッチを放り込んだ。引きちぎられた婚姻届は炎に包まれ、灰になっていく。私の恋も、

   灰になっていけばいいと思う。何一つ心痛ませることなく、終わっていけばいい。

     「次はもうすこし、マシな恋愛ができればいいけど」

    馬鹿みたいに愛し合う両親の三分の一でいいから、愛し愛される恋愛をしてみたい。この男は最

   高だと、自慢してみたい。揺れる炎に恋の残滓を放り込みながら、私は小さく溜息をつく。

     「……」

    そんなことを考えているうちに全ての残滓が燃え尽きて、部屋の中から灯りが消える。だけどそ

   の優しい暗闇の中でも、私の目の裏から揺れる残滓の炎が消えることはなかった―。

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    炎が燃える。

    暗闇の中で、静かに燃える。
    
    私はこの炎に焼かれることを夢見ながら、炎から一番遠い場所にいる。

    かつて炎に己が想いを託した罪深き女のように、私も炎に誰かの影を見たい。

    だけど炎は私の心など知らず、ただゆらゆらと不実に揺らめくだけだ。

    炎が燃える。

    暗闇の中で、静かに燃える。




                                                             Fine.