十二月二十三日。日曜日。
私は待ち合わせ場所に、小走りになりながら十五分程遅れて到着した。
「お、お待たせしました。すみません」
「別にそんなに待ってないよ。はい」
苦笑して差し伸べられた右手におずおずと自分の左手を重ねると、ぎゅっと握り締められた。こん
な時、幸せだなと心から思う。
「ねぇ、小早川さん」
「はい?」
つないだ手を離さずに街を歩いていた時、不意に名前を呼ばれた、めったに聞くことがない、真面
目な声で。
「結婚、しようか」
前を向いたまま、照れ隠しのように小さな声で。そんな言葉が私の耳元で囁かれた。ふんわりと言
葉と共に吐き出された白い息だけが、今の言葉が幻聴ではないことを証明している。
「塩谷課長代理……」
「あー、こういうときは名前呼んでよ。ムードがなくなるじゃない」
塩屋係長が私を死なせはしないと言ってくれてから、三ヶ月経って。係長は、課長代理にまで出世
していた。常務との縁故ではなく、自分の力で。
「それを言うなら、課長代理もずっと私を苗字で呼んでるじゃないですか。課長代理が私を名前で
呼べたら、考えてあげますよ」
私はすっかり元の可愛げのない女に戻っていて、塩谷課長代理を日々困らせている。死なせて欲し
いなどと考えていたなんて、微塵も感じさせないほどに。
「そういうの、苦手なんだよなぁ……」
困りきったようにあちこちに視線をさまよわせていた課長代理は、ふいに何かを思いついたように
手を引いて私の身体を引き寄せた。
「あの高台の上でなら、呼べると思うよ。人もいないし、ムードもあるし」
「でも、遠いですよ?」
三ヶ月前に課長代理が誓いをくれた場所は、ここから新幹線で四時間ほどかかる場所で。
到底今すぐ行けるような場所ではない。
「今日が日曜だから、明日は振替休日でしょう?おまけにクリスマスイブだし。今から一番早い新
幹線に乗れば、十分間に合うよ。行こう!」
「ちょ、ちょっと……」
反論を唱える間もなく、最寄りの駅へと私はずるずると引きずられてゆく。
優しいけれど時々こんな風に暴走して、私を思いっきり振り回してくれる恋人。塩谷修治さんと出
会えた今。私は死を望まないし、死に逃げない。その代わり……。
「待ってくださいよ。そんなに急がなくても……」
この稀有で豪奢な日常がずっと続いていきますようにと、私は生まれて初めて神に祈りながら生き
ている―。
fine
*円。Vol.2ウタウ。より転載。甘っ!*