ゴージャス(シナセハシナイ・シナセテホシイ)

 「もう、君には飽きたんだ」

 一年と少しの間付き合ってきた恋人が、レストランでそう言って別れを切り出してきた時。私は言

葉一つ口にせずただ俯いただけだった。

 「そろそろ、潮時だろう。いつまでも続けていける関係じゃないことくらい、君だって理解してい

るだろうし」

 不倫。そうはっきり言えない目の前の男の様子に、私はこみ上げてくる笑いを堪えることができな

かった。

 「……えぇ。潮時でしょうね」

 笑いながらグラスに入っていたワインを飲み干して、私はくっくっと肩を震わせる。

最初から、彼には何も期待してなどいなかった。期待するほど愚かにはなれない。同じ職場の、元上

司と部下。わかり安すぎるこの不倫の構図に、何を期待すればいいのか?と逆に聞いてみたいくらい

だ。

 「安心してください。私はストーキングするほど安い女じゃないですからね」

 空になったワイングラスをテーブルに置くと、料理を待たずに立ち上がる。

 「ワインと今までの甘い夢をごちそうさま、飯高さん」

 そう言って町に出た私は、ただひたすらに歩き続けた。いつのまにか、飯高さんとの時間が全てに

なっていて。それしか考えられない、情けない女になっていたことが酷く悔しかった。

 できることなら死なせて欲しいと、私は生まれて初めて神に死を願った―。

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 「眠い……。意味のない会議ほど、眠いものはないよな」

飯高さんと別れてから一週間後。月に一回行われる本社での定例会議の途中で、隣に座っていた現

上司の塩谷係長がぼそりと呟いた。

「そんなこと言っても……。ちゃんと聞いていないと後で困りますよ」

 ふざけたように呟く塩谷係長に苦笑し、私も眠気を堪えようと資料をぱらぱらとめくる。

 「ねぇ、小早川さん。今日ホテルに戻る前にちょっと寄りたい所があるんだけど。いい?」

会議資料をめくる私の肩を叩いて、塩谷係長は耳元で小さく呟いた。

「はぁ、いいですよ」

 本社から遠く北の外れにあるウチの支社は、会議に出るとなるとどうしても一泊せざるを得ない

。前まではこの制度を利用して、飯高さんと月に一度のお泊りデートなどと言ってはしゃいでいたも

のだ。

「良かった。一人で行っても意味がないからね」

「えっ、私も行くんですか?」

てっきり先に行っていてくれという意味だと思っていた私は、少しだけ驚いて係長を見上げた。そ

こにあったのはいつになく真剣な塩谷係長の顔で、私は見てはいけないものを見てしまった気がして

、視線を逸らした。

「すぐ済むから、付き合ってよ」

係長はそう言って、いつもの人のいい笑みを浮かべるとあくびをかみ殺した。

「じゃ、行こうか」

会議の終了が宣言された途端、係長は机の上に出してあった資料をものすごいスピードで片付け、

さっと立ち上がった。普段はおっとりのんびりしているタイプなのに、こういうときばかりは行動が

早い。

「塩谷。これから予定ある?俺達と飲みに行かない??」

「あー、いやちょっとね。今日は遠慮するわ」

各支社の人達の誘いをふわりと微笑んでかわし、塩谷係長は会議室を出て行く。私はあわてて、そ

の後を追いかける。

「食事は後でもいいでしょう?」

 すっかり闇に沈んだ街のきらびやかな繁華街を過ぎ、路地裏をいくつも通り抜けて。係長は私の答

えを待たずに、街の中をずんずん進んで行く。何かに追い立てられるように、足早になりながら。

 「どこに行くんですか?塩谷係長」

 「ん?秘密」

 いくつ目かの路地を抜けた時、目の前に長い坂道が現れた。この先だよ、なんてさらりという係長

に軽く殺意を覚えながら、私は必死でパンプスを履いた足で坂を登る。

 「ほら、下見てみて。綺麗だから」

 怒りに任せて登っていたら、いつの間にか頂上に着いていた。塩谷係長が指差す先には百万ドルと

はいかないまでも、十万ドルくらいの価値はありそうな夜景が広がっていた。

 「わぁ〜、綺麗なもんですね」

 眼下に広がる夜景がはるか遠くまで続いているのを見て、私は思わず目を細めた。綺麗で猥雑で、

したたかな生命力に満ちた灯りが目に痛い。

 「学生の頃この辺に住んでたから。よく授業さぼって、ここに来てたんだ。人なんて滅多に来ない

し、この眺めを独り占めしてると思うとゴージャスな気分になれるのが好きだった」

 係長は悪戯を見咎められた子供のような顔をして笑い、落下防止用のガードレールに手を付いた。
 「ねぇ小早川さん。ここから落ちたら、死ねるよ」

 「えっ?」

 想像もしなかった言葉を向けられ、私は思わず塩谷係長に向き直った。そんな私の視線に動じるこ

となく、係長はただ夜景を見続ける。

 「かなり高さがあるから、このガードレールを超えて飛び降りれば。君は死ねる」

 「い、いきなり、何を言い出すんですか?」

 動じていないふりをしようとして口にした反駁の言葉は、みっともないほど掠れていて。私が動揺

していることを示すには、十分だった。

 「ごめん、俺知ってるんだ。君と前までここにいた、飯高係長の関係。飯高さん、飲み会の時に嬉

しそうに“若い愛人”だって言ってたから」

 その言葉で、私の顔からさぁっと血の気が引いた。背筋に悪寒が走り抜け、声が出ない。確かに飯

高さんは四十歳で、私は二十歳。“若い愛人”という言葉は間違いではないけれど、ショックは大き

かった。

 「ここから飛び降りたい?小早川さん、この一週間凄く辛そうで。いつ死んじゃうんじゃないかと

気が気じゃなかった」

 塩谷係長の優しい言葉に、私は自分の情けなさを恥じて唇を噛んだ。仕事中にまで顔に出てしまう

ほど、飯高さんのことしか考えていなかった自分。社会人として失格だと思うと、自然に唇を噛む力

も強くなる。

 「でも……。小早川さんが飛び降りるのは、俺が許さない」

 係長は夜景から私に向き直ると、ひどく落ち着いた真面目な声音でそう言った。

 「好きだから死なせはしない。どんなに君が死を望んでいても、止めてみせるから」

 塩谷さんの真っ直ぐな言葉と視線に向き合えずに、私は地面に視線を落とす。

 「そんな、口説き文句みたいなこと言われても……。婚約者の方が聞いたら怒りますよ」

 塩谷係長は去年、二歳年下の常務の娘さんと婚約している。ぼんやりしていても二十八歳で係長に

なれるくらいだから、かなり有能な社員の一人で。常務の方から見合いを持ち掛けて来たらしいと、

支社では専らの噂だった。

 「あぁ、そうだねぇ」

 「そうですよ」

いずれにせよ、いつまでも支社にいる人ではないことは確かだ。せっかくのこの縁談が不用意な発

言一つで壊れてしまっては、私は係長にも常務の娘さんにも申し開きが出来ない。

「だけど、ね。一度に二人の人間に心を砕くなんてことは、不器用な俺には出来ないんだよ。君を

止めることだけで限界なの。だから、別れた。婚約も解消したよ」

なんでもないことのように言う塩谷係長の様子に、私は驚いて慌てふためいた。

「ほ、本当に別れたんですか?婚約解消なんて、そんなこと。せっかくの出世のチャンスですよ、

またとない好機なのに。それに常務の娘さんも凄い美人だし、係長を凄く愛してるって。支社のみん

なもそう言ってるのに、それなのに……」

「しょうがないじゃない。俺がこうしたかったんだから、別にいいの」

私の慌てぶりが余程おかしかったらしく、肩を震わせて笑いながら係長はまたガードレールに手を

付いて夜景に視線を投げる。

「俺は、君を死なせはしない。だから何をしたいとか、君とどうなりたいとか。そんなことは言わ

ない。死なせはしない。ただ、それが言いたかっただけだから」

眼下の豪奢でしたたかな夜景は先刻より色彩を増し、ますます鮮やかに輝いて存在を主張している

のに。私の目は、塩谷係長以外を写してはくれなかった。

「こんなときは、なんて言えばいいんでしょう?適切な言葉が見つかりません……」

嬉しくて、申し訳なくて、悲しくて。でも嬉しくて、とても幸福で……。感情が出来損ないのマー

ブル模様のように、混ざり合い過ぎていて。私は言葉を選べない。

ありがとう、でいいんじゃないの?」

塩谷係長はそう言って、いつもと同じ人のいい笑みを私に向けてくれる。その笑みに甘やかされて

いることに気付いて、私は少し笑った。

「ありがとうございます」

「どーいたしまして。さ、遅くなったけど夕飯食べに行こうか」

今までの湿った会話などなかったように、無邪気な子供の様に笑った塩谷係長は坂を下り始める。

その後姿を追いかけながら、私は少しずつ意識が死から生へと向かい始めたことを感じた。

死なずに生きている今を、私は神と塩谷係長に感謝した―。



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