<二人>  

  

「姫様、なぜここに……」

 木戸を開けて私の顔を見るなり、乃部秀成は大げさな姿で床に倒れ伏した。あまりに急いで駆けてきたた

めに、止まることができなかったのだろう。床に積もった埃が、もわりと舞う。ここは館の最奥にある蔵で

あり、昼日中にあっても常にうす闇の中だ。そのうす闇の中に倒れ伏した乃部の顔に、深い悲しみの色が浮

かぶ。

「大げさじゃ。何も倒れることはなかろう」

 私は膝を折り、乃部に手を差し出す。だが乃部はその手を取ることなく、己の力でずるずると起き上がっ

た。私に触れることを、乃部はいつも意識的に避けている。仕方がないことだとはわかっていても、私には

それが悲しかった。

 乃部は父上に仕える医師の一人であり、私の乳兄妹でもある。私の母上が産後しばらくして亡くなったた

め、乃部の母が乳母となって私を育ててくれたのだ。その頃はまるで本当の兄妹のように仲が良かったが、

今はもう昔のように遊ぶことはできない。私は主君の娘であり、乃部はその医師なのだ。

「姫様。今日が何の日か、お忘れになったわけではありますまい。今日は……」

「私の結納の儀であろう。忘れるわけがないわ」

 立ち上がった乃部の諭すような視線にさらされ、私は苛立ちを隠せない。私の結納の相手は隣国の若君で

ある和賀清忠殿といい、文武に秀でた美しい若武者だという。この婚姻の話が決まったときには私より義母

上が舞い上がり、和賀殿がいかに美男子の誉れが高いかを延々と聞かされた。

「それならばなぜ、こんな蔵になどいるのです」

 乃部は少しだけ口角を上げて笑い、私に問いかける。私が何も言わなくても、乃部には答がわかっている

筈だ。口惜しい。

「姫。お答えください」

「鍛錬をしておっただけじゃ」

 私は乃部の問いに答えながら蔵の壁に立てかけてある剣を手に取り、すばやい身のこなしで構える。薄闇

の中でも刀身はときおりぬらりと光り、闇を切り裂いていた。

「……いざのときにお前を守れぬようであっては、困るのだ」

 鞘の中に剣を収め、乃部を見上げる。だが乃部は相変わらず、口角を微かに上げて笑っているだけだ。口

惜しい。ただ口惜しい。

「お前は体が弱い。合戦になっても剣を取り、戦うことなどできはしまい。だから私が、お前を守る。そう

約束したではないか」

「……それは幼い頃の話にございます。私はもう馬を駆ることもできれば、合戦で剣を振ることもできる」

 幼い頃、乃部は体が弱かった。床から起き上がれぬ日も多く、元服を向かえるまで生きていくことは絶望

的だと誰もが思っていた。しかし十歳を超える頃から乃部は次第に丈夫になり、今では身の丈も六尺に届か

んばかりの、大男になった。そして若く腕利きの医者になり、多少の剣術と馬術も身に着けている。私が守

る必要などどこにもない。それはわかっている。だけど私は、その約束に固執した。それだけが私と乃部を

繋いでいる物だと思っていたから。

「まもなく、和賀様が参られます。お召し替えをなさってください」

 そう言うと、乃部は私に背を向けた。広く大きな背中の向こうで、乃部はどんな顔をしているのだろう。

笑っているのか、それとも……。

「私が、和賀殿の妻となっても。お前は何とも思わないのだな」

 広い背中にそんな言葉をぶつけてみても、乃部はこちらを振り返ることはなかった。私は急に気恥ずかし

くなり、乃部の脇を足早にすり抜けて蔵を出て行く。重い木戸を開けて外に出ると、そこには穏やかな秋の

日差しが満ちていた。

「馬鹿なことを言ったものよ……」

 足早に秋の日差しの中を歩きながら、私は思わず呟いた。さっき乃部に向けた言葉は、身勝手な恋情その

もので。さぞかし乃部は困惑したに違いない。私と乃部の間には、時間が流れすぎたのだ。

「あぁ、由。もう和賀様がお見えになりますよ、早く身支度を整えていらっしゃい」

 埃だらけの着物で館の中を歩いていた私の姿を見つけた義母上は、慌てて私を自室に押し込む。その後い

つの間に来ていたのか女中連中がやって来て、派手な着物を着せ付けるわ髪に余計な飾りは刺すわと大変な

騒ぎになった。おしろいもべっとりと顔に塗りたくられ、唇には紅が引かれる。

「お綺麗ですわ、姫様」

「えぇ、本当に」

 着付けと化粧を終えた私は、皆に引きずられるままに鏡の前に来た。鏡の中にいるのは、私出会って私で

はない。おしろいと派手な着物で何もかもを包み隠した、女がそこに映っていた。

「さぁ、行きましょう」

 義母上に促がされるまま、私は部屋を出た。いつも着ている簡素な着物と違い、この着物は歩きにくい。

ましてや頭の上でぶらぶらと揺れている飾りも重く、足取りさえおぼつかなくなる。

「そうそう。そうやってしとやかに歩くのが、女性のたしなみというものです」

 何を勘違いしているのか、義母上は嬉しそうに笑っている。私はその言葉には何も答えずに、ただ重い身

体と心を引きずるように歩き続けた。どこかに乃部の姿は見られないかとあちこちに視線をさまよわせてみ

たものの、広く大きな背中さえ見つけることはできなかった。

「清忠殿。これが娘の由じゃ」

「初めまして、由と申します」

 父上の言葉を受けて深く頭を下げてから顔を上げると、そこには見目も麗しい若武者が座っていた。

穏やかな笑みこそ刻まれている物の眼光は鋭く、まさに武士というにふさわしいたたずまいだ。


「……驚きました。これほど美しい姫が私の妻となるべき人だとは」

 わざとらしく見開かれた和賀殿の目を見詰めているうちに、私は今すぐ着物も髪飾りもかなぐり捨て

て退席したい衝動に駆られはじめた。和賀殿の妻になるということがどれほど絶望的なことかを、私は

改めて感じていた。どれほど有能な武将であろうと、美しい顔立ちであろうと。そんなことは、私の心

に何の感慨ももたらさない。冷え切った絶望感へと繋がっていくだけだ。

「勿体無いお言葉、ありがとうございます」

 震える声でそう言って頭を下げるのが、精一杯だった。政略結婚という名の義務を、遂行しようとし

ている和賀殿には何の罪もない。結婚は他家と繋がる、有効な手段。この戦乱の世を生き抜くための、

必要悪。いくら理知に見放されている私でも、そのくらいのことはわかっている。

「さぁ、宴の支度をしろ。結納の宴だ」

 和賀殿と私の様子を伺っていた父上は、義母上に満面の笑みでそう告げた。義母上も嬉しそうに部屋

を辞し、足早に廊下を駆け抜けていく。義母上ばかりではなく、女中たちのせわしい足音も聞こえ始め

たとき。私は父上と和賀殿に深々と頭を下げた。

「……それでは、私も支度をしてまいります」

 私には何の支度も必要ないのだが、一時でも長くこの場を放れていたかった。今自分が向き合ってい

なければならない物から、逃れたかったのだ。

「姫様」

浮き足立つ人々の流れに逆らって歩いていると、穏やかで優しい声が私を呼び止めた。私は思わず口元

をほころばせ、後ろを振り返る。

母様

 そこには乃部の母であり、私の乳母でもある秋乃が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。義母上より

もずっとずっと私を愛してくれた秋乃を、私は実の母と同じように慕い母様と呼んでいる。

「姫様にお渡ししたい物がございます。私の部屋までよろしいでしょうか?」

 母様の言葉に頷くと、母様の部屋に招じ入れられる。私に座るよう促がすと母様は小物入れの中から

、綺麗な瑠璃のかんざしを取り出した。それは子供の頃から何度となく見せてもらった、母様の宝物だ

「私にもし、娘がいたら。嫁ぐ時にはこれを渡してやろうと決めておりました。ですが私には娘はありま

せんので、姫様に貰っていただきたいのです」

 かさついた小さな手で母様が瑠璃のかんざしを差し出す姿を見ていた私は、それを受け取ることもで

きずに唇を噛んでいた。母様は何も言わず、私の背を撫でてくれる。優しい母様の手から伝わるぬくも

りは、私の中で凍らせていた涙を目覚めさせた。私の双眸からはとめどもなく涙が零れ落ち、畳を濡ら

した。

「姫様の幸せを、私は心から願っております。それは秀成とて、同じはず。姫様とあの子は二人で共に育

ってきたのですから」

 ようやく溢れ出した涙が止まったとき、母様はそう言って微笑んだ。私の心のうちを見透かしている

ような、冴えきった微笑だった。母様の言うとおり、乃部が私の幸福を願っていてくれるなら。それだ

けでも、私の心は満たされる。

「母様。このかんざしは、大切に致します」

 私はかんざしを受け取ると深く頭を下げ、母様の部屋を出た。母様と話しているうちに宴の支度はあ

らかた終わったらしく、先ほどとは打って変わって廊下に人気はない。早く戻らなければ、父上や義母

上が苛立つだろう。そんなことを思いながら歩を早めた、そのときだった。

「……」

 廊下の影からにゅうっと手が突き出され、私の歩みを止めた。その手には文らしきものが握られてい

る。

「お受け取り下さい。そして、できるなら今日の丑の刻までにお読み下さい」

 文を差し出した手の持ち主の囁くような声が、私の耳を貫く。蔵の中では私に背を向けたというのに

、今更何故文などを渡してくるのか。その心を、私は図りかねていた。

「乃部、これは……」

「姫様!姫様!」

 女中の声がすぐ近くで響いて、私は慌てて懐に文を押し込んだ。胸があまりにも早く脈打ち、館中に

この音が聞こえてしまいそうだ。乃部も女中に見つからないよう、足早にその場を立ち去っていく。

「あぁ、姫様こんなところにいらっしゃったのですか。お館様がお待ちでございます、お急ぎ下さい」

「わかりました」

 平静を装った声で女中に頷くと、私はそっと懐の文に着物の上から触れた。それだけのことなのに、

また胸が痛む。私は静かに目を閉じて心を落ち着けた後、女中の後に続いて歩き出した。



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