雨ガ降ル日ニハ窓ヲ開ケテ


 さてどこから手をつけたものかと、私は目の前に広がるガラクタだらけの部屋を見回した。いっそすが

すがしいくらいに物で埋め尽くされた部屋は、私にとってはいつもの光景で何ら違和感もない。今夜ここ

に人を招く予定さえなければ、困ることなんてないのに。

(雨も降っているし……)

 ここ二、三日調子が思わしくないのはこの雨のせいだ。じっとりとした湿度が表皮に張り付くせいか体

がだるくて、何もする気がおきない。でもそんなことも言っていられないから、私は床の上に散らばって

いる物を手当たり次第にダンボールに詰め込む。どう見たって使い道のなさそうなものはあらかじめ用意

していたゴミ袋に放り込んでいくうちに、私の手に冷たくて硬いものが触れた

「あぁ……」

 それは見慣れない紋様が付いた古びたナイフで、柄の部分に赤い小さな宝石のようなものが埋め込まれ

ている。

「佳苗にあげるよ」

 つい一週間前まで付き合っていた、とかく問題の多かった恋人が付き合って一年の記念日に珍しくもく

れた物だ。どこの国のものだったか聞いたはずだが思い出せない。中東とかアラブ方面の骨董品だったと

、聞いたような記憶がある。

「これでね、呪術をかけて生贄を殺すんだよ。神に捧げる供物にしか使われない、聖なる物なんだ」

呪術とか呪いとかそんなものに興味でもあったのか、酷くにこやかな顔でこのナイフを差し出してきた

のを今でも鮮明に覚えている。

「だから、僕と別れるようなことがあったならこのナイフで佳苗は死んで。僕以外の誰かと居て幸せでい

るくらいなら、死んで一人で居て」

 今思い出してもぞっとするような台詞を言っておきながら、その男は一週間前に別の女と結婚すると言

って私に別れを切り出してきた。泣いて騒ぐのは趣味じゃないし、いい加減愛想も尽きていた私は素直に

男と別れた―。

「彼女にナイフをあげるなんて、ちょっと異常だよな。別れて良かったよ」

 男と別れた直後にたまたま遊びに来ていた兄は机の上に置いていたナイフを眺め、安心したようにぽつ

りと言った。

 「そう、なのかな。別に気にしないでもらったけど」

 ありがとうと言って何の気なしに受け取ったことを話すと、兄とその友人達は困りきったように顔を見

合わせて。室内に妙な空気が流れ始めた時。

「佳苗さん、最強ですね」

 その中の最年少、十九歳で私より五歳も年下の遼太君がそう言って笑ってくれたから私も少しだけ笑え

た。

「よし、じゃあ俺の可愛い妹のために。今度の土曜はここで盛大に失恋パーティをするか」

 私が笑ったのを見た兄はそう言って、私の肩にぽんと手を置いてくれた。周囲から偉大なるシスコンと

言われる程、兄は私を気遣ってくれる。生まれたときに母を亡くし、父の他界後は義母と折り合いが悪す

ぎて早々に実家を飛び出した私にとって兄だけが今は唯一の家族だ。

「賛成!佳苗ちゃん、料理とかお酒とかは私に任せてね」

 兄の恋人で調理師の希実さんはそう言って、泣いているような笑っているような顔のまま私をぎゅっと

抱きしめてくれた。その感触が嬉しくて照れ笑いを浮かべながら、私も希実さんに抱きついた。

「ありがとう、姉さん」

希実さんの耳元でそう言うと、希実さんはにっこり笑ってくれた。もうすぐ、私には優しい姉さんが出

来る。暖かい春の日差しの中で私は、孤独じゃなかった。

 

「だけど……」

冷たい雨の中で、私は今エアポケットみたいな孤独の中にいる。別れた男が恋しいわけでも、兄さんや

希実さんが急に冷たくなったわけでもないのに。あと三時間もすればこの部屋は人でいっぱいになって、

希実さんの美味しい料理と他愛もないおしゃべりに包まれて、またあの日のように孤独から解放されるは

ずだ。

『このナイフで佳苗は死んで……。幸せでいるくらいなら、死んで……』 

耳元で小さな羽虫が飛んでいるような微かな音で、あの男の声がする。耳を塞いでも、声は消えない。

あの男の言うとおり死ねば、この声は消えるのだろうか。

 雨が降る音とその声に促されるように、私はナイフを鞘から引き抜いた。

「綺麗」

 鉛色に鈍く光る刃に見入っていた私は、無意識のうちに来ていた上着の左腕にそれを押し当てて引いて

いた。ナイフは薄い布地を切り裂いて、その下の皮膚に薄く赤い筋を創り出す。ガラクタの山の中に座り

込み、今度はナイフを持ち替えて右腕の布を切る。今度は赤い筋から、つうっと血が流れた

「泣きたい……」

 一週間前から凍っていた欲求が、どろりと嫌な音を立てて溶解してゆく。私は悲しかった、捨てられた

ことが。縋り付いて、泣き喚いて。そう出来る程には愛していなかったのは事実だけれど、きっと私は…

…愛されたかった。 今度ははっきりと自分の意思で、私はナイフを自分の肌にあてて引く。肌が切れる、熱くて冷たい痛み。

『死んで。このナイフで……死んで。幸せでいるくらいなら……』

 もっと大きくなる声。それは別れた男の声ではなく、私を疎み続けた義母のものに変わっていた。私が

死んだ母に似ていると、父がことあるごとにそう言うのが気に入らなかったのだろう。手こそ上げられな

かったものの辛辣でとげとげしい言葉ばかりを向けられ、褒められたり抱きしめられたりした記憶などな

い。その険悪な空気を嫌った私は、全寮制の高校へと進学し家を出たのだ。

『死ンデ。死ンデ……』

 痛みと薄れてゆく意識の中。私はもう一度自分の肌を切りつけ、意識を手放そうと寝転んで目を閉じる。

「佳苗さん!何やってるんですか!」

 深い深い意識の底に沈んで行くところだった意識は、耳を劈くような怒声ともの凄い揺さぶりで行き場

を失い浮上する。

「……あぁ、遼太君。いらっしゃい、早かったね。大丈夫。このくらいなら、死ねないから。寝かせて」

 別に動脈を切ったわけではないし、幸いなことに貧血持ちでもない。ちょっと寝て起きれば、またいつ

もの
最強な佳苗に戻れる。

「そういう問題じゃないですって!」

「そういう問題なんだよ。ねぇ、窓開けてくれない?この部屋、凄く嫌な匂いがするから」

 鉄が酸化したような、私の血の匂いがこの部屋中に満ちていた。遼太君は何か言いたそうな顔をしたけ

ど、黙って窓を開けてくれた。

「雨の音って、揚げ物する時の音みたいだよね」

 今まで窓で遮られていた雨音が一気に室内に流れ込んできて、血の匂いを一掃してくれる。私は雨の音

が大好きだ。勢い良く降り続く雨の音は、私の存在を綺麗に覆い隠してくれるような気がするから。

「なんで、こんなことしたんです?」

寝転がる私の傍に座り、遼太君は眼鏡の奥にある目を伏せた。いつもと同じ優しい色をした髪を、ぐし

ゃりと困惑したように掴みながら。

「小学校一年生の遠足の時、朝雨が降ってるような音で目が覚めて。あわてて窓を開けたんだけど、外は

凄くいい天気だった。何の音だろうって思いながら台所に行くと、義母さんがエビフライを揚げてたんだ

 遼太君の質問には答えず、私は独り言のように呟く。兄と私のお弁当箱が並んで置かれていて、どちら

にもおかずやご飯が詰められていた様子が目の裏に浮かぶ。 

「でも、やっぱり違ったんだよ。兄さんと私のお弁当は」

 青い大きな兄のお弁当箱には、林檎のうさぎとミートボールとじゃがいもサラダ。そしてたこの形をし

たウインナーと、かわいいうずらの卵。あとはエビフライを入れば、凄くおいしそうなお弁当だった。

「じゃあ、佳苗さんのはご飯だけだったとか?」

「甘〜い。それは甘いね、遼太君。そんなことしたら、私を邪険にしてるってばれるじゃない。赤い小さ

な私のお弁当箱には、ただのウインナー半部と丸ごとゆで卵。きゅうりの薄切りと……エビフライの尻尾

が二個入ってたよ」 

 周りの友達から離れて、一人で食べたお弁当。作ってくれただけでなんだって思いながら食べたエビフ

ライの尻尾は、なんの調味料もついていないはずなのに酷く塩辛かった。

「どうすれば良かったのかなぁ、愛されるためには」

「……」

 遼太君は黙ったまま、ただ私の顔を見ている。なんだか決まりが悪くなって、私はゆっくり寝返りを打

って遼太君に背を向けた。

「あの男にも、愛されたかったんですか?」

 背中の向こうから、遼太君の抑えた声が聞こえる。

「うん、愛されたかった。でも私は、愛されるほどあいつを愛してはいなかった。義母さんのことも、そ

うだったのかもしれない。私が愛してなかったから、向こうも愛してくれなかったのかも」

 一方通行の愛ほどむなしいものはないと、昔友達が言っていたのを思い出し私は小さなため息をついた

。恋愛でも友愛でも家族愛でも、愛のほとんどが一方通行。愛してくれとか、愛してるとか。叫べば何か

が変わるのだろうか?

「遼太君

「はい?」

「一時間たったら、起こして。少し寝るから」

 そう言うと私は目を閉じた。今度こそ意識は深い深い場所に沈み、雨の音も何か言っている遼太君の声

も少しずつ薄れていって聞こえなくなった―。

「佳苗さん。佳苗さん」

「ん。おはよ」

 遼太君に肩を揺さぶられて目を覚ました私は、自分の両腕に真っ白な包帯が巻かれているのに気が付い

た。

「これ、遼太君がしてくれたの?」

 のっそりと体を起こし、包帯を巻かれた両腕を遼太君の前に突き出すと遼太君はにこりと笑った。

「俺、看護学校生ですから。練習台にさせてもらいました」

そう言って遼太君は巻きが緩んでいないか確かめるように私の腕を掴み、真剣な顔で腕を裏返したり包

帯を引っ張ってみたりする。

「お見事だよ。綺麗に巻けてる

「このくらいなら、簡単なもんですよ」

 照れくさそうに笑った遼太君に、ありがとうと小さな声でお礼を言う。とんでもない所を見せてしまっ

たなという後悔と反省心が今更のように湧いてきて、私はそれを誤魔化すように部屋の片付けを再開する。

「佳苗さん」

 ガラクタを詰め込んだダンボールをクローゼットの中に押し込むのを手伝ってくれていた遼太君は、不意

にダンボールを押し込む手を止めた。

「もっと、自分を大切にしてくださいね。今まで愛されなかったからって、これからも愛されないって決

まったわけじゃないんですから」

「……わかったよ」

今度は私が照れてしまって、下を向いたままダンボールを乱暴に押し込む。こういう真面目な言葉は苦

手だ。どんなことを言ったらいいのか、わからなくなるから。

「本当にわかりました?」

駄目押しとばかりに言い募る遼太君の声に、私はむっとして顔を上げた。

「しつこいよ!」

「やっと、戻りましたね。最強の佳苗さんに」

 怒鳴られたのにどこか楽しそうな表情を浮かべた遼太君は、最後のダンボールを押し込んでゴミ袋を結

び始める。

「やっぱり、私って最強?」

 クローゼットのドアを勢いよく閉め、私も別のゴミ袋の口を結ぶ。開け放たれた窓の外は相変わらずの

土砂降りの雨だったけど、表皮に張り付く不快な湿気はもう感じられない。

「最強ですよ」

 結び終えたゴミ袋を軽々と持ち上げて、遼太君は大きく頷く。その答が嬉しくて、私は笑いながらゴミ

袋を持って玄関に行き外の集積所へ行こうと傘をさす。

「あっ、俺も行きます」

 遼太君はそう言って私の手から傘を奪い取って、先に玄関から出る。誘うように傾けられた傘の中に入

ると、私と遼太君は目と鼻の先のゴミ集積所まで歩き出した。

「明日晴れたら、俺が佳苗さんにお弁当作ってあげますよ。林檎のうさぎとミートボールとじゃがいもサ

ラダ。たこの形のウインナーとうずらの卵に、ちゃんと身のついたエビフライが入ったお弁当。そして、

二人で遠足のやり直ししましょう」

 集積所にゴミを出した帰り。傘の中で囁くように遼太君はそう言って、私の顔を覗き込む。

「なんかこの状態で言われると、口説かれてるみたいだ」

そう言ってくすりと笑った私に、遼太君はさらりと口説いてるつもりなんですよなんて言う。

「最強の女に言い寄ると、苦労するよ?おまけに超シスコンの兄貴付」

「う〜ん。俺、雅直先輩に殺されるかも……」

 ふと兄のことを思い出したのか、一瞬難しい表情になった遼太君だったけどまたすぐに穏やかな表情に

戻る。

「受けてたちますよ、その時は。そして勝ちます」

「期待してるよ」

 私の部屋の玄関まであと五歩くらいになったとき、遼太君はいきなり傘を畳んでぎこちなく手を伸ばし

私の手を握り締めてくれた。服も髪も肌も濡れてしまったけど、その雨の中で私はやっと素直になって泣

くことが出来た。

「時々は、雨もいいもんですね」

「明日になったら、晴れてもらわないと。遠足、行くんだし」

 部屋に入って開けた窓から雨を眺めながら、私達はみんなの到着を待つ。もうすぐ兄さんや希実さん、たくさんの人が来て私の失恋を祝ってくれるはずだ。

「佳苗さん。失恋の直後に始まる恋って、どう思います?」

「ちゃんと言ってくれないと、考えてやらない」

雨の降る日に窓を開けて、軽口を叩き合って。じゃれあうような会話と優しい空気の中で、私は幸福を

感じて目を閉じる。

「去年の夏、みんなで海に行きましたよね」

「あぁ、行ったね。遼太君と沖の岩場まで泳いだよね」

「あの時佳苗さん、なまこ掴んで俺に放り投げたでしょう?」

「だって、程よく気持ち悪くて面白かったから」 

「そのとき、凄く佳苗さん楽しそうに笑ってて。なまこは気持ち悪かったけど、佳苗さんはなんか凄く可

愛く見えて」

「なまこ掴んでた私が?遼太君も物好きだねぇ」

「……ねぇ。目、開けてくださいよ」

少しだけ困ったような、焦れたような声に促されて私は目を開けた。そこにはちゃんと遼太君がいて、

今まで見たことがないような大人びた顔をしていた。

「      」

開け放たれた窓から聞こえる雨音の中に消えそうな程小さな声で、遼太君は私が聞きたかった言葉をく

れた。

 私は今、孤独じゃない。




                                                                 fine.