Cloudy〜幸福な女神〜

 「君は誰?」

 そう言いながら洞穴の奥から出てきたのは、眠そうな顔をした若い男だった。黒い髪に、簡素な衣

類。視力を補うための眼鏡というものの奥から覗く訝しそうな視線に、私はどう答えたらいいのかわ


からずにただ無言でその男を見返していた。


 「あ、もしかして日本語通じないかな?フ、フー・アー・ユー?」

 懸命なその様子に、私は思わず苦笑した。人間の男というものに出会ったのは初めてだが、この男

には悪意や嫌悪は感じない。シャイン姉さんが言っていた“可愛い”というのは、こんな様子を言う

のだろうか。

  「安心していいわ。言葉はわかるから」

 それでも少しぶっきらぼうにそう答えると、人間の男はほっとしたように笑った。

  「良かった〜。俺、英語なんか喋れないし」

 男はそう言うと、もう一歩私に近づいてきた。人間の男としては小柄なのだろう、あまり身長は高

くない。逃げろと頭の片隅で警鐘が鳴っているが、私は動けずに男を見ていた。

  「ここにいるってことは、船に乗りそびれた?」

 男はそう言って、洞穴の中へと私を促す。その背中の後について行くと、洞穴の最奥らしき広い場

所に行き着いた。そこには男が持ち込んだらしい火のついていないカンテラと僅かばかりの荷物があ

り、地下水が休むことなく湧いていた。


 「たまにいるんだよ、船に乗り遅れる人。ここは携帯も繋がらないしね。大丈夫、午後の便で帰れ

よ」


 男は平たい岩に腰掛け、苦笑する。

 「船って何のこと?」

 「ほら、君も乗ってきたでしょう?××港からの遊覧船に」

 私が不可解な顔をしていたからか、男は荷物の中から一枚の紙切れを取り出す。そこには“緑と海

に抱かれた、安らぎの地。△△島遊覧船観光ツアー!”と馬鹿でかい字で書かれており、私はようや

く男の言葉の意味を理解した。


 「船で来たわけじゃないわ」

 男が取り出した紙に描かれているやたらとデコラティブな船の絵を見ながら、私は正直な答を返す。

  その答に驚いたのか、男はきょとんとした顔になった。 

 「じゃあ、どうやってここに来たの?」

 「風の天使の背に乗って」

 私が真面目にそう言った途端、男は盛大に吹き出した。

  「君、まじめな顔で冗談言うんだねぇ」

 男は私にも岩に腰掛けるように促し、パンフレットをしまう。暗くて冗談も通じない薄闇の女神の

私が冗談を言うことなどありえないのだが、何も知らない男には十分そう聞こえたらしい。

  「冗談じゃないわ。本当に……」

  「はいはい。怒ると暑くなるから」

 抗議の言葉を遮られ、私は憮然としたまま岩の端に腰掛ける。ローブの裾が引っかからないように

と注意しながら。

 「俺は、君みたいに風の天使には乗れないから。遊覧船で来たんだ」

 そう言って男は立ち上がり、金属でできているらしいグラスに湧き水をくみ上げる。さっきよりは

だいぶ弱くなったものの、まだ太陽の光が洞穴の奥にまで差し込んでいて。その水が揺れる度に、き

らきらと綺麗に光った。

 「はい、どうぞ」

 男は私にグラスを差出し、にこりと笑う。左の頬に小さくえくぼが浮かび、まるで子供のようだ。

 「ありがとう」

 手を伸ばして受け取ったグラスは薄く水滴を纏い付かせていて、ひんやりとしていて気持ち良かっ

た。そのままグラスに唇を寄せ、こくりと一口水を飲む。喉を流れる冷たい感触に、私は思わず目を

閉じた。

 「それで、そのまま一日ここにいて。さすがに一人じゃ寂しくなってきたころだったから、話し相

手ができて嬉しいよ」

 もう一つグラスを取り出して水を汲み上げ、男はまた岩の上に腰掛ける。私はグラスを両手で握り

締め、私は男の言葉に首を傾げた。

「何故、次の遊覧船ですぐに帰らなかったの?」

 毎日二度運行しているという遊覧船に乗れば、その日に帰れたはずだ。人間は私たち神や天使と違

い、家族や社会との結び付きが強い。広い天界に家族が散り散りになっていて、好き勝手に暮らして

いる私たちなら気まぐれでそういうこともできる。だが同じことを人間がすれば、たちどころに支障

が出るはずだ。

 「ちょうど、仕事も休みだったし。それに……一緒に住んでる恋人と喧嘩をして。気まずくてさ」

 飲むというより呷ると言った方がいい勢いで水を飲み干し、男は盛大にため息をつく。余程恋人が

恋しいのか、洞穴の壁をじっと見つめそれを何度も繰り返した。

 「で、俺は地元に帰ってきて。ガキの頃良く来たこの島に来てみたんだ」

 空になったグラスを脇に置き、男はため息をつかずに苦笑した。

 「喧嘩も出来ない関係よりはマシだと思うわ」

 私も先刻の男の真似をして水を呷り、グラスを空にする。少しだけ水が唇の端を伝い、ローブの上

に染みを作った。

 「君には、そんな関係の恋人がいるの?」

 水を飲みきった私に遠慮がちに男は声をかけ、少しだけ眉を寄せる。その反応に私は慌て“一般論

よ”と言う。私には主神が定めた夫なる人がいるらしいのだが、未だ顔も見たことがない。その夫は

どこの誰で何をしている神なのか、誰も知らないのだ。シャイン姉さんやレインはよくきゃいきゃい

言いながら詮索しているが、私は考えるだけ無駄だとその問題は放棄している。

 「それが一般論なら、少し怖い気がするな」

 私の手からグラスを抜き取り、男はまた水を汲みあげる。そんなに喉は渇いていなかったが、私は

男からグラスを受け取るとまた勢いよく飲み干す。まるで自棄酒だね、と男はそんな私を見ながら言

う。

 「そうだ」

 男はグラスを岩の上に置き、何かを思いついたらしく表情を明るくする。

 「明日と明後日。××港で祭りがあるんだよ。一緒に行こうよ」

 手の中のグラスにゆがんで写る自分の顔を眺めていた私は、男の言葉に驚いて顔を上げた。つい

さっき会ったばかりだというのに、こんなにも簡単に誘いをかけてくる男をひどく軽薄に感じて。

 「そんなに警戒しないでよ。大丈夫、ただ祭りを見るだけだから」

 男は私の異変に気づいたらしく、困ったように頭を掻く。適当な言葉を捜しているらしく、優しげ

な目をきょろきょろと動かしながら。

 「名前も知らない女を誘うというのが、あやしいじゃない」

 私が憮然としたままでそう言うと、男は納得したらしく唇を笑みの形に変えた。その笑みを見た

途端に気恥ずかしくなり、私はまたうつむく。こんな反応をするなんてまるで人間の小娘のようだと

思うと、頬が熱くなるのを止められない。

 「じゃあ、ちゃんと自己紹介をね。俺は新宮、30歳。日本人だよって、どう見てもアメリカ人には見

えないか。仕事は一応商社勤務」

 男がそういった瞬間から、そこに新宮直毅が生まれた。今まで名前のなかった偶像に名が与えられ

、いきいきと動き出す。聞かなければ良かったのかもと一瞬後悔したが、私はすぐにその考えを打ち

消した。

 「今度はそっちの番。言えるとこまででいいから」

 答えを待つ新宮は、穏やかな目で私を促す。名乗られたら名乗り返すのが常識だということは、人

間界でも天界でも同じことで。義理堅さには定評のある私が、常識をたがえることはない。

 「私の名はクラウディ。残念ながら、日本人ではない。それしか言えないわ」

 自分が天界の住人であることや薄闇の女神であることを、人間に伝えることは天界の掟に反するこ

とで。私はどこかすっきりしないままに、名を名乗る。今この瞬間に、新宮のなかにもクラウディが

生まれたのだろう。どこかほっとしたような顔で、新宮も私を見ている。

 「クラウディか。なんか似合うよ、その名前」

 新宮がそう言って笑ったとき、遠くから船の汽笛が聞こえてきた。あのデコラティブな遊覧船がや

って来たのだろう。新宮はすぐに荷物をまとめてつかみ、ついでにとばかりに私の手もつかんで走り

出した。

 「何?!」

 「いいから、走って。間に合わなくなるから」

 伸び放題の草を掻き分け、木々の間を縫いながら。私は新宮とともに走り続けた。島の端にある遊

覧船の発着所までは、洞穴からだと十五分はかかる。あのパンフレットには二十分の停泊と書かれて

いたから、ぐずぐずしていては間に合わない。

 「待ってくれ〜、俺たちも乗る!!」

 発信準備をしていた船をそう叫んで止め、新宮は船に乗り込む。私もなんとか船にたどり着き、甲

板の上に座り込んだ。どうやらあまり客はいないらしく、船内は寒々とした空気に包まれていた。

 「あー、良かった間に合って。さっきはごめん、腕をつかんで」

 新宮はそう言うと、私の右腕を見てため息をついた。そこにはくっきりと形が残っており、赤くなっている。

 「別にかまわないわ。こんなのはすぐ消えるから」

 腕のあざを撫でて笑うと、私は立ち上がって船首へと向かう。青い海を切って進んでいく様子を眺

めていると、なぜか勇猛な気分になってくる。風の天使の上から眺めるより、数倍魅力的な光景だ。

 「あ〜、久々の祭り。楽しみだ」

 いつの間に来たのか、新宮も船首から海を見つめていた。風がなびかせる黒髪が顔に張り付くのを

何度も引き剥がしながら、それでもここにいること新宮はやめない。

 「今日は前夜祭で、明日が本番。七夕だからね、明日は」

 七夕。そういう風習があることは、私も知っていた。その日が晴れていれば牽牛と織女は一年に一

度の逢瀬のときが過ごせるが、曇っていたり雨が降ったりしていては会えないらしい。つまり、彼ら

の恋路の邪魔を私がしているのだ。その事実に、私はいたたまれない気持ちになる。 

「そして明日恋人たちが二人でその星空を見ると、うまくいくらしいんだ」

「それじゃあ私じゃなく恋人と……」

「だから喧嘩中だって。東京にいるはずだし、天気予報だと曇りだって言ってたし」

途切れ途切れにそんな会話を交わしているうちに、遊覧船は港に到着した。乗船料を払うために私

は手持ちの紙切れに息を吹きかけ、札に変える。本来ならばあまりいいことではないのだろうが、人

間界に来ると発生する金銭問題を解決するにはいたしかたないことなのだ。

 「あ、クラウディの分も払っておいたから」

 先にさっさと船を下りた新宮はなんでもないことのようにそう言って、早く早くと私をせかす。

 「なぜそんなことを?」

 行き場を失った手の中の偽札を握ったまま、私は船を下りて新宮に抗議する。恋人や親兄弟ならま

だしも、赤の他人である私にそこまでする義理もないはずだ。

 「いいの、俺が払いたかったんだから」

 ムキになる私の手を握り、新宮はにやりと笑う。また走り出すのかとも思ったけれど、今度はゆっ

くりと歩き出す。

 「手を、離して」

 私は手を振り解こうとするが、強い力で握り締められているためびくともしない。道行く人たちは

私たちを痴話喧嘩に興じる恋人たちだとでも思っているのか、ニヤニヤしたり咳払いをしたりしてそ

のまま立ち去ってしまう。

 「今日だけ。恋人ごっこしようよ」

 そう言いながら新宮が浮かべてみせた笑みがひどく切なくて、私は反論できずに握り締められた手

から力を抜いた。それに気づいた新宮は、小さく“ありがとう”と呟いて歩き出す。

 「わぁ…」

 港からなだらかな丘を登り会場に着いたとき、私は思わず立ち止まった。小さな港町のはずなのに

どこからやってきたのか人で溢れていて、たくさんの屋台が立ち並んでいる。民族衣装なのか袖の長

い衣服を着た娘たちが、しゃなりしゃなりと歩いてゆく。

 「クラウディの故郷では、こういうお祭りってあったの?」

 「なかったわ。ある意味退屈な所だから」

 あらゆるものが物珍しく、私は何度も立ち止まって新宮を困らせた。尾ひれを動かして悠々と泳ぐ

金魚、原色が美しいカキ氷。中でも私の心を捉えたのは、棒に突き刺さった雲のようなものだった。

 「あれは何?」

 子供たちはその雲のようなものを口にし、幸せそうに笑っている。だがそのふわふわとした形状は

まるで食べ物には見えず、ますます私を混乱させた。

 「あれは綿飴。食べてみる?」

 私の返事を待たずに新宮は硬貨を店主に渡し、大きくふんわりとした〈ワタアメ〉とやらを受け取

る。そしてそれを私に差し出し、食べてみてという。恐る恐る指先でちぎって口に入れると、甘くて

すぐに溶けてしまった。その変化が面白く、私は夢中でワタアメを食べ続けた。

 「おいしい?」

 新宮にそう言われて、私は指先でちぎったワタアメを口の中に押し入れてやる。目をまん丸に開い

て驚いた新宮は、すぐに笑みを取り戻し仕返しとばかりに同じように押し込んでくる。その甘さが消

えないうちに私もまたやり返し、どんどんワタアメはなくなっていった。

 「雲もこれぐらいおいしかったら、少しはいいんだけどな。雲は苦くてかなわないから…」

 「ははは、食べた事もないくせに」

 すっかりワタアメを食べつくし、残った棒をしげしげと見つめて私と新宮は他愛もない会話を続け

る。日が傾くにつれ会場にはどんどん人がやってきて、普段広い塔に一人でいる私はその中を必死に

なって歩く。狭い大地にしがみついている人間は、こうやって歩きにくい中を歩かなければならない

のだろう。だが、それも一瞬だ。人間に主神が与えた時間はひどく短い。

 「クラウディ。ここ出ようか」

 そんなことを考えていたからか、物憂げな顔をしている私を気遣うように新宮は会場を出て人のい

ない海岸へと連れ出してくれる。そこには喧騒も歓声もワタアメもない代わりに、穏やかな時間が満

ちていた。

 「すごい人だったね、昔はこんなでもなかったんだけどなぁ」

 海を眺めながら、新宮はポツリとつぶやく。きっと新宮の頭のなかには幼い頃低い目線で見上げて

いた祭りの風景が浮かんでいるのだろう、懐かしむような視線を海に投げかけている。

 「とてもいい町ね、ここは。にぎやかな祭りと静かに凪いだ海がある。私がもしこっちに住むなら

、こんなところがいいわ」

 にぎやかな喧騒の中で人々と語り合い、静かな海のそばで本を読んで。そして時々はワタアメを食

べて生きていく。そんな暮らしができるならこの悠久の生を捨ててもいいと、私は思い始めていた。

そんなことは主神が赦しはしないだろうが。

 「ここはいい町だけど、俺にとってはもう過去の町だから。やっぱり少し色褪せて見えるな。都会

に染まってきたのかも」

 砂浜を歩きながら、私と新宮は珍しい貝を拾ったり月を眺めてみたりと先刻の喧騒からは信じられ

ないような静かな時間をすごす。会話らしい会話などないが、不思議と穏やかで居心地のいい時の中

で、私は人間に対するわだかまりが溶解していくのを感じていた。今まで接触を避けていた分見えな

かった、人間という生き物。もちろん今だって手放しで彼らを愛せるわけではないが、新宮と出会え

た今は彼らを否定することはやめようと思えた。人間という枠で括らずに、一人一人別な生き物であ

ることを私は忘れていた。

 「あぁ、でも。クラウディがここにいるなら、戻ってきてもいいかもしれない」

 ふいにそう言って、新宮は立ち止まる。そして私を抱きしめた―。