100万本のバラ〜シアワセデアルヨウニ〜

 『ねぇ、百万本のバラを彼女に贈ろうと思うんだけど。喜んでもらえると思う?』

 日曜の午前六時四十七分。耳元でやかましく鳴る携帯電話の音に根負けした俺が起き上がって電話

を取ると、三歳年下の弟の思いつめたような声が聞こえた。ヤツはまだ学生だから日々暇を持て余し

ているんだろうが、俺は昨日も休日出勤して仕事を片付けてきた多忙なサラリーマンで。この時間に

起こされるということは……。

 「いー加減にしとけ。そんな用事で電話してくんじゃねぇや!」

 いくら弟思いの優しいお兄様の俺でも、思わず心にもない罵詈雑言をはいてしまうという事態を招

いてしまう。

 『耳、痛っ!怒鳴ることないじゃない』

 まだ幼さの残る弟の声音を携帯越しに聞きながら、俺は昨日の夜放り投げたままだった煙草に手を

伸ばした。箱の中からゆるゆると一本つまみ出し、唇に挟み込む。

 『僕さ、彼女より年下じゃない?それに出世なんかしないだろうし、彼女に宝石とか家とか買って

あげられないと思うんだよね。それに、そういうのいらないっていう人だし。だから、プロポーズす

る時に彼女の好きな赤いバラを百万本……』

 「二億円」

 大人気ないとは思ったが、弟の惚気話を遮るように俺は声を上げた。

 『え?』

 「百万本のバラを買うと、約二億円かかるんだよ」

 唇からまだ火をつけていない煙草を取り、俺は部屋の片隅で埃をかぶっていた電卓に数字を打ち込

んでゆく。

 「一ヶ月に百本送っても、六十年くらいじゃ間に合わないな。百万割る六十で、一万六千六百六十

六……。割ることの十二ヶ月では千三百八十八……。となると相場は一本で五百円くらいだから、一

ヶ月で二十万強の出費だな」

 『…そんなにかかるの?っていうか、なんで二億円って知ってるの??』

 電話の向こうで落胆したような弟の声がして、俺は電卓の数字をCEボタンでゼロに戻して苦笑す

る。

 「まぁ、なんでもいいだろ。きっとカヅコは、別に百万本のバラじゃなくても喜んでくれるさ。元

々物欲のない奴だし、お前からもらえば一本だって十本だって喜ぶよ」

 『そう、かなぁ……。でも、兄さんがそういうならそうなのかもね。悔しいけど、兄さんの方がカ

ヅコさんとの付き合い長いし。親友の言うことに間違いはないよね?』

 さっきくわえていた煙草に今度こそ火をつけ、ゆっくりと吸い込む。口いっぱい、肺いっぱいに苦

い煙を吸い込んで。限界まで息を止め、吐き出す。

 「あぁ。幼馴染で、親友の言うことは信じて間違いはない」

 俺と弟の彼女、カヅコは兄弟みたいに育った仲だ。幼い頃はどこへ行くにも、何をするにも一緒で

。だから、大抵のことは知っている。どうしてカヅコが弟と付き合っているのかも、どこに惚れてい

るのかも。

 『信じるからね、兄さん。僕のプロポーズが失敗したら、責任取ってよ!!』

 「そんな責任取れるかよ……。もう、こんなくだらない電話してくんなよ」

 一方的に電話を切り、受話器を放り投げて。まだ十分長い煙草を灰皿に押し付けて消し、俺はまた

のろのろと布団の中にもぐりこんだ。ほどなく眠りの気配が訪れて、俺は心地よさに目を閉じる。

 

 [なぁ…。私、昨日ミノル君に告白されたんやけど……]

 [そう、とうとう言ったか。ずーっと悩んでたんだよ。あいつ]

 [いいんやろか、私で……]

 [いいもなにも、ミノルがカヅコに惚れてるんだから。おまえが嫌じゃなきゃ付き合ってやってく

れ]

 [じゃあ、忘れていいんやね。アキラの言ったことは]

 [何の話だ?]

 [あの、約束。十歳の頃の]

 [……ごめん、記憶にない]

 [そう……。わかったわ。気にせんといて]

 [……]

 

 目が覚めた時、世界はもう薄闇の中だった。丸一日、眠ったまま過ごしてしまったらしかった。一

年前のことを夢に見たせいか、身体が酷くだるい。

(僕が大人になったら、百万本のバラを持ってカヅコを迎えに行くよ。そうしたら、結婚しよう)

忘れたことにしてしまった約束。本当は一度だって忘れたことのない約束。二億円という値段も、

この約束をしてから調べたものだ。きっと二度と口に出すことなどなく、このまま埋もれていくだろ

う全てのこと―。

「……」

大切に思う二人が、これから積み重ねていくだろう時間を思うと俺の心は温かな幸福で満たされる

。これからも、ずっと続いていくだろう幸福。

 「あの二人が幸せであるように……」

 わざと声に出して、俺は祈る。綺麗事で飾られた祈りが、いつか心からの祈りに変わるようにと願

いながら。




 
 円。Vol.2ウタウより。